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松江地方裁判所 昭和56年(わ)137号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一  本件公訴事実及び争点

一  本件公訴事実の要旨は、「被告人は、第一 昭和五六年七月一六日午後一一時三〇分ころ、島根県邑智郡〈住所略〉甲野ドライブインこと甲野一郎方寝室に寝ていた甲野春子(当時六歳、昭和四九年一一月一五日生)を同町〈住所略〉付近の山中まで連れ出し、同所の山道上において、同女が一三歳未満であることを知りながら、同女の口を手でふさぎ、パンツを脱がせ、同女の陰部を指で弄んだうえ姦淫し、その際、右暴行により、同女に対し処女膜裂傷の傷害を負わせ、第二 同月一七日午前〇時一〇分ころ、自己の犯行の発覚を防ぐため同女を殺害することを決意し、同女を同所から同町〈住所略〉の梅林内まで抱きかかえて連れて行き、同所において、同女の首を付近に生育していた蔓で絞め、よって、そのころ、同所において、絞頸により窒息死させて殺害したものである。」というものである。

二  本件の争点

後述のように、被害者である甲野春子は、昭和五六年七月一六日午後一〇時ころから翌一七日午前〇時四〇分ころまでの間に、何者かによって、甲野一郎方から連れ出され、同日午前九時五五分ころ絞殺死体で発見されたものであるところ、被告人は、一六日夜、甲野ドライブインで飲酒し、被害者の連れ出し可能時間帯内の午後一一時三〇分ころ同店を出、翌一七日午前二時前ころ、同店の南隣の旧井原農協給油所(以下「旧農協ガソリンスタンド」という。)内で、横になって寝言のようなものを言っているところを、被害者を捜索していた甲野夏子(被害者の母)らに発見されたものである。したがって、被告人が犯人であるとすれば、被告人は同店を出た後旧農協ガソリンスタンドに入るまでの間に本件を犯したはずであり、検察官もそのように主張している。

一方、被告人は、同店で飲酒している途中から記憶が曖昧になり、店を出たことも覚えておらず、その後、右ガソリンスタンドで夏子らに発見されるまでの間どのような行動をとったかも覚えていない、本件の記憶は断片的にもない旨述べて本件を否認し(ただし、第一回公判における罪状認否では、前記公訴事実中、強姦致傷につき、「全く覚えていません。」旨、殺人につき、「被害者を抱きかかえて連れて行ったような気もしますが、はっきりしません。それ以外の事については全く覚えていません。」旨の陳述をし、これはその後の本件についての記憶は断片的にもないとの供述とは異なるが、被害者を抱きかかえて連れて行ったことも結局ははっきりしないというのであるから、右陳述を犯行の一部自白であるとみることはできない。)、弁護人も、被告人は本件の犯人ではない旨主張している。

このように、本件は、被告人と犯行との結び付きが争われている事案であるが、被告人は、捜査段階では、本件について自白していたことから、右実体上の争点と関連して、この自白の主として信用性評価をめぐって深刻な対立が生じている(なお、弁護人は、自白の任意性も一応争ってはいるが、捜査段階の自白に関する主張の力点はほとんど専らその信用性の如何に向けられている。)。また、捜査段階の自白を除くその余の証拠だけでも被告人と犯行とを結び付けうるのかどうか等の点についても、当事者間で大きな争いとなっている。

そこで、以下においては、本件の事実関係を概観したうえ、まず、捜査段階における自白を除いても被告人と犯行との結び付きを果たして肯認しうるか否かについて検討を行い、次いで、捜査段階における自白の信用性等を検討し、最後に、これらの中で検討できなかった問題点について触れることとする。

三  略語等

以下においては、証拠の引用にあたり、次のような略語を使うことがある。また、証拠書類群に編綴してある証拠については、証拠等関係カード記載の証拠番号を《》で付記する。

1  被告人、証人の供述については、当公判廷における供述と公判調書中の供述部分とを区別せず、例えば、第五五回公判調書中の証人甲野一郎の供述部分を「一郎証言」などと表示する。

公判期日の回数を表示する場合には「一郎五五回証言」などと表示する。

当裁判所の証人尋問調書についても、例えば、当裁判所の証人甲野一郎に対する尋問調書を「一郎証言」「一郎期日外証言」などと表示する。施行日を表示するときは、次の当裁判所の検証調書、受命裁判官の検証調書の施行日の略記法により表示する。

当裁判所の検証調書、受命裁判官の検証調書は、区別せずに「裁判所検証調書」と表示し、施行日の表示は、昭和五八年一一月一四日施行を「58/11/14施行」とする例による。施行日が二日にわたる場合でも最初の日のみ記載する。

2  検察官に対する供述調書は「検面」と、司法警察員に対する供述調書は「員面」と、司法巡査に対する供述調書は「巡面」と表示する。

書証の作成者については、検察官を「検」と、司法警察員を「員」と、司法巡査を「巡」と、検察事務官を「事」と、裁判書書記官を「書」と、島根県警察本部刑事部科学捜査研究所警察技師を「研究所技師」と表示する。

書証の作成日付けの略記は当裁判所の検証調書、受命裁判官の検証調書の施行日の略記法に準じ、うち昭和五六年作成のものについては、年の表示を省略し、例えば、被告人の司法警察員に対する昭和五六年七月二〇日付け供述調書は被告人の「7/20付け員面」と記載する。

謄本、抄本、写し及び一部のみ取り調べられたものについては、これらの表示を省略する。

3  証拠物の押収番号は、その符号のみを記載する。

第二  事件の概要

まず、取調べ済みの関係証拠によって本件の基本的な事実関係を、必要に応じ証拠説明を加えながら概観する。

一  被害者の行方不明及び被害状況など

1  被害者の身上関係など

被害者(昭和四九年一一月一五日生、当時六歳)は、父甲野一郎、母夏子の長女で、小学校一年生であり、父母及び兄甲野二郎(小学校三年生)とともに、島根県〈住所略〉の店舗兼用住宅に居住していた。

一郎は、右自宅で、甲野ドライブインを経営する傍ら江津市内でパブレストラン甲野を経営していたものであり、甲野ドライブインの方は、夏子が手伝い三名を使って切り回し、一郎は、夕方江津の店に出掛け、深夜に帰宅するという生活をしていた。

2  甲野ドライブインの建物及び周辺(死体発見現場を含む。)の状況

甲野ドライブインの建物(以下の叙述については、別紙(一)ないし(四)参照。)は、主要道路である国道二六一号線から枝分れして四〇〇メートル弱入った地点の幅員約六メートルの道路(町道宮の原仏一原線(旧国道))に面し、一階部分の面積が約二一四平方メートル、二階部分の面積が約一二四平方メートルある二階建の建物である。旧国道に面した建物正面(西側)には、甲野ドライブインの店舗玄関があり、建物西壁と道路の間は、駐車スペースとして使用されている。

建物南側には中央よりやや奥(東側)に寄った甲野方の住居部玄関があり、住居部玄関より西側の敷地も駐車スペース(普通乗用車一台が駐車できる程度の広さ)として使用されている。住居部玄関より東側のスペース(これは後記の寝室の南側の敷地になる。)には南端にごみ焼却用のドラム缶が二本置いてあり、さらにその奥に物置がある(寝室南側敷地のその他の状況については、後述する。)。

甲野ドライブインの建物の南隣には、西側を除く三方を高塀で囲まれた旧農協ガソリンスタンドがあり、旧農協ガソリンスタンド北塀と甲野ドライブインの敷地南端の間には旧国道から東方に向かう幅約二メートルの小道がある。この小道を東方に進むとすぐ山道になる。この山道は、旧農協ガソリンスタンドの裏にある兎谷秀美方の北側を通り、旧日野山方(空き家)前に通じている。この山道を上り、旧日野山方前で北折すると、盛本登美子方に至るが、盛本方の庭内を通過し、畑の中の道を北進した後西に折れ、梅林(本件死体発見現場の一段上の梅林。以下「上段の梅林」ともいう。)の中を通り、山道を少し下り、北折すると、本件死体発見現場の梅林に至ることができる。

甲野ドライブインの建物の西側には、旧国道をはさんで、石見町井原多目的研修集会施設(通称体育館)があり、その敷地南東角付近に水銀灯が一基(以下「水銀灯1」という。)、北側敷地(体育館正面側敷地)にも水銀灯が一基(以下「水銀灯2」という。)設置されており、夜間には点灯されて、それぞれ付近を照らしている。水銀灯1の照明で、甲野ドライブイン前付近は夜でもかなり明るくなっており、旧農協ガソリンスタンド内にも水銀灯1の光が差し込んでいるが、その北壁の近くは北壁が遮蔽物となって、水銀灯1の光が差し込まない場所となっている。

体育館裏側(南側)には、幅員約一・二メートルの西に向かう小道があり、これを西進すると、町道下町普明寺線に至る。

甲野ドライブインの建物の東側(裏側)にはすぐ山が迫っており、寝室南側敷地を東進しても行き止まりになる。

甲野ドライブインの建物の北には、野田十四秋方居宅があり、その間の通路を進むと甲野ドライブイン店舗調理場に入る勝手口がある。

野田方居宅のさらに北には、同人方の大工小屋がある。

野田方大工小屋前には南北に走る小道(有効幅員約〇・九メートル、全長約五五メートル)があり、この小道は南は野田方居宅前で旧国道に交わり、北に進むと、町道下町沢久谷線(これは旧国道から分岐し、石見町生活改善センター(通称生活改善センター)正面(南側)を通り、右小道と交わった付近で北々東に曲がる。)に交わる。

右小道の東脇には側溝があり、側溝の東側は石垣になっている。右側溝は、小道の北側終点手前で西に折れ、小道の下を通過して、町道下町沢久谷線の南側を流れている。

右野田方居宅前から小道を北進し、大工小屋を約一〇メートル過ぎると、側溝を渡って石垣の上の畑に行く石段があり、畑の中の道を進むと山道になり、稲妻状のこの山道を上って、上段の梅林に行き着く手前で北に分岐する道に入ると、本件死体発見現場の梅林に至ることができる。

右小道を石段を上がらずに北進し、町道下町沢久谷線に入り、二五メートル位進むと、進行方向右手に、本件死体発見現場の梅林の一段下の梅林に入る入り口があるが、この下段の梅林の中を通り、その東側斜面にある道を上っても、本件死体発見現場の梅林に至ることができる。

下段の梅林の入り口に入らず、さらに町道下町沢久谷線を十数メートル進むと、進行方向右手に東に向かう小道があるが、この小道を進んで皆原ツマ方横に至り、進行方向右手の石段を上がり、石段の上の畑を通り過ぎ、急斜面を上ることによっても、本件死体発見現場の梅林に至ることができる。

右小道の入り口の反対側には町道下町沢久谷線に接して土蔵があるが、その裏に梅林がある(この梅林の位置は、生活改善センターの裏手にもなる。)。

右土蔵前より町道下町沢久谷線を少し進んだ所には街路灯が一基設置されている。

甲野ドライブインのある一帯は、甲野ドライブインの南方に多少人家が集中しているが、いずれにしても山あいの閑静な農村地帯であり、甲野ドライブインの前を通る旧国道の通行量は少ない。

甲野ドライブインの建物の一階の西側は店舗になっており、その東側に建物を南北に貫き、建物南側の前記住居部玄関に通ずる廊下があり、さらにその東側に部屋が三室あり、うち南側の八畳間が甲野一郎方の家族全員の寝室であり、右寝室の北にある二室は店の宴会場に使用されている。

同建物の二階は、北西角にある部屋が子供の勉強部屋として使用されており、その余の部分は物置、物干場などとして使用されている。

右寝室には廊下から木製ドアを通って入る。右寝室には南側と東側(建物裏側)に窓があり、南側の窓は木枠二本引ガラス窓であり、ガラスは三段状にはめられており、下の二段はすりガラス、上の段は透明ガラスである。

寝室南側敷地は、壁側の幅約〇・八四メートルが犬走りになっており、犬走り上には、住居部玄関東側壁から寝室南側に沿って幅約〇・六メートル、長さ約二・六二メートルにわたって瓦が置いてある。犬走りの南側には両側壁(各約一〇センチメートル)を含め幅約四三センチメートルのコンクリート製溝があるが、溝内は泥土が堆積し、水捌けが悪い。

右寝室は、旧国道側から見ると、南に張り出した住居部玄関の陰に隠れている。

住居部玄関には二本引きのすりガラスの玄関戸が南向きに付いている。

店舗は、西側にある店舗玄関から入ると、左手側が調理場で正面やや左奥の方にカウンター席、正面及び右手側にテーブル席がある。右手側奥(東南角、廊下をはさんで寝室の向かい側)に便所があり、この便所には店舗と廊下のいずれからも入れるようになっている。正面奥に廊下に上がる出入口があり、ここを入ると左手側に宴会場があり、右手側には寝室がある。

被害者の死体発見現場である梅林は、甲野ドライブインの北々東、直線距離で約七〇メートルの所に位置し、南北に細長く、台形状で、面積は約八八平方メートルである。同梅林には稲妻形に合計七本の梅の木が植えてある。本件梅林の南方にある、山道が十字に交差する付近と野田方前小道との標高差は約一〇メートルである。前述の水銀灯2は、現場から南西約七八・九メートルの所にあり、街路灯は北々西約三六メートルの所にある。

3  昭和五六年七月一六日の被害者や家族の様子

七月一六日午後一時半ころ、被害者は二郎とともに学校から帰り、家の中で遊んだりした後、午後五時半ころ、江津の店に行く一郎を見送った。午後六時すぎころ、被害者は土砂降りの雨の中で遊んでいて、夏子に家の中に入るよう注意された。午後六時半すぎころ、従業員の渡竹代が被害者や二郎のいた寝室に夕食を運び、被害者と二郎はテレビを見ながら午後七時ころまで食事をした。

被害者、二郎はその後もテレビを見ていたが、午後八時すぎ、被害者は、「果物を貰ってくる。」と言って寝室を出、渡とともにぶどうを持って戻ってきた。被害者、二郎はぶどうを食べた後、渡が敷いてくれたソファーベッド(正確には下にソファーベッド、上に敷布団)の上に横になってテレビを見ていたが、午後九時すぎ、二郎は二段ベッドの上の段に上がって就寝した。

二郎が寝る時は、被害者は、洋服のままソファーベッドの上に横になってテレビを見ており、まだパジャマに着替えていなかった。

午後一〇時ころないし午後一〇時三〇分ころ(この時刻については、後述する。)、夏子が寝室に子供達の様子を見に行ったが、二郎は、前同様二段ベッドの上の段で寝ており、被害者は、ソファーベッドの上にパジャマに着替えて、頭を南側にして寝ていた。これが、生きている被害者が確認された最後であった。この時に、南窓には薄茶色の厚手のカーテンが引いてあり(ただし、員作成の7/30付け検証調書《検29》写真番号43によると、カーテンのピンがカーテンレールから一部外れていることが認められ、このことからすると、事件当夜カーテンは引いてあっても、窓が完全に覆われた状態であったとは思えない。)、部屋には蛍光灯が点灯しており、テレビもつけ放しのままだった。夏子は、テレビを消して店に戻った。なお、当夜、南窓は閉まっていたが、その鍵は掛けていなかった。

ところで、右のように、被害者は午後九時すぎには洋服姿であったのに、午後一〇時ころないし午後一〇時三〇分ころには、パジャマ姿で就寝していたのであるが、これは自分で着替えたのであろうか、また、後にパジャマに付着していた朱色塗膜片との関係で問題となるが、果たして、このパジャマは洗濯済みのものであったのであろうか。

この点につき、渡竹代は、7/18付け員面《検22》で、七月一六日午後九時すぎころ被害者と二郎にぶどうを持って行った時、二人共寝ていた、この時被害者は白地に花柄様のパンツ一つで寝ていた、私は、被害者にオレンジ系地に赤色様柄入りの半袖パジャマ上下を着せてやった、被害者は眠ったままであった旨述べ、さらに7/20付け員面《検24》で、同旨の供述をしたうえ、このパジャマは二階に他の洗濯物と一緒に干してあったパジャマで、被害者にパジャマを着せてやろうと思って、二階に上がり持ってきたものである旨供述している。

渡は事件後捜査官に対し前後四回にわたって供述をしているのであるが、その供述中には信用しうる部分もある。しかし、老齢(六六歳)で記憶力が減退しているためであろうか、信用性を疑うべき供述もかなり多く含まれている。

例えば、7/18付け員面、7/20付け員面だけでも次のような点を指摘できる。

渡は、一六日午後八時ころ寝室に食事を運んだというが、二郎は、7/20付け巡面《検21》で、夕食をとった時間が午後六時半すぎから午後七時ころである旨、その日のテレビ番組と関連付けて具体的に述べており、かつ、これは、弁護人作成の元/10/17付け報告書《弁17》、夏子の7/24付け検面《検18》によって裏付けられている。

また、その日の夕食の献立について、渡は、玉ねぎ、ピーマン、鶏肉の酢の物、キャベツ、レタス、トマト、きゅうりのサラダ、豆腐入りのみそ汁、米飯というが、被害者の死体解剖をした島根医科大学法医学教室教授福井有公作成の10/6付け鑑定書《検106》には、胃の内容物として、米飯粒、わかめ、にんじん、わらび、野菜等と記載されている。

渡は、午後九時すぎ、寝室にぶどうを持って行ったら、二郎も被害者も寝ていたというが、二郎は、前記員面で、午後八時すぎ、被害者が「今日の果物を貰ってくる。」と言って、部屋を出て行き、渡とぶどうを持って戻り、被害者と自分の二人でぶどうを食べた旨、やはりテレビ番組と関連付けて具体的に述べている。

渡は、被害者は、その時上半身裸で白地に花柄入りパンツをはいていたというが、被害者がその夜白色無地のパンツをはいていたことは死体発見時の状況から明らかである。

渡は、被害者に着せたパジャマはオレンジ系の地に赤色様の柄の付いたものというが、被害者が死体発見時着ていたパジャマは白地にオレンジ色、一部赤色の柄の付いたものである。

渡は、被害者はソファーベッドを南北に敷いて寝ていたというが、二郎は前記員面で、渡がソファーベッドを敷いてくれた旨述べている。

渡は、右ソファーベッドに南向きに寝ていた被害者にパジャマを着せた後、北向きに被害者を寝かせ、タオルケットを掛けたと述べるが、夏子は、七月一七日の検証(員作成の7/30付け検証調書《検29》)で、一六日午後一〇時三〇分ころ被害者の寝姿を見た際、被害者は頭を南方向に向けていたとの現場指示をなし、かつ、その時の状況につき、枕は南側、タオルケット、夏布団は北側と指示している(なお、夏子は、7/20付け員面(五枚綴りのもの)《検17》で、自分が被害者を見た時は南方向に頭を向けていたが、渡が寝かせた時北方に頭を向けさせたというのなら、被害者は寝あずりすることもあるので、そのせいで頭の向きが変わったのではないかと供述しているが、枕や布団の位置まで逆転させて寝あずりすることがあるかどうか疑問が残る。)。

このように、渡の供述は、他の信用すべき証拠と相反する部分が多く、ある程度信用できる部分があったにしても、全体としては、かなり信用性に疑問のある供述といわなければならないのである。

したがって、同女の、前記一六日午後九時すぎころ寝室に行った際、被害者がパンツ一枚で寝ていたので、洗濯済みのパジャマを着せてやったとの供述が信用できるとするためには、これを支持するに足る根拠がなければならないのはもちろんであり、殊に、この供述事項がかなり重要性の高いものであり、かつ、これに関与しているのは渡ただ一人であって、渡以外にこの点に関する供述をしている者がいないことに鑑みれば、右判断に当たっては慎重な態度が要請されるというべきところ、なるほど、渡は、パジャマを着せてやった際、パジャマ上衣の一番下のボタンを掛けなかったと述べ、現に死体として発見された被害者のパジャマ上衣の一番下のボタンは掛かっていない状態にあったことが認められるのであるが、被害者自身が着用したとしてもパジャマ上衣の一番下のボタンを掛けないということもありうること、被害者が被害を受けている間に、パジャマ上衣の一番下のボタンが外れたということもありうることを考えると、いまだもって、信用性を保証するに足る根拠とみることはできない。

ところで、夏子は、7/24付け検面で、子供の様子を見に寝室に行った際、子供達は寝ており、テレビがつけ放しになっていたので、これを消した旨供述しているが、これは状況的には、渡が、一六日の夜子供達が二人共寝た状態の時に寝室に入っていないことを示唆するものである。

これらに照らすと、渡の前記供述は、にわかには措信しえないのであって、被害者が自分でパジャマを着た可能性、そのパジャマが洗濯済みのものでなかった可能性も相当程度あるといわなければならない。

4  被害者の生存を夏子が確認した時刻

夏子は、その7/24付け検面《検18》で、「私は午後一〇時すぎで最初の明日の会のグループが帰り、入れ替わりに小泉興業の社長達が来たときだったと思いますが、子供達の様子を見に部屋に行きました。そのときの時間はもう午後一〇時半を回っていたかもしれません。」と述べているところ、検察官は、右供述は、時刻の点はともかく機会の点については具体的であること、小泉義則、三宅熊二、前田保則、三浦勇の四人のグループが甲野ドライブインに来たのが午後一〇時半ころであることは証拠上間違いがないことを根拠に、夏子が寝室に行ったのは、午後一〇時半ころであると主張している。

これに対し、弁護人は、夏子は、右検面作成前の員面では一貫して、子供達の様子を見に寝室に行ったのは、午後一〇時ころと述べていたのであり、この供述も具体的であるから、検面の方が信用できるとする根拠はないと主張している。

そこで、検討する。

夏子は、7/17付け員面《検13》では、最初の明日の会のグループが午後八時ころから午後一〇時三〇分ころまで、小泉義則らのグループが午後一〇時三〇分ころから午前〇時三〇分ころまで店にいたとしたうえで、子供達の様子を見に行ったのは、午後一〇時ころであったと供述し、7/20付け員面(一三枚綴りのもの)《検14》では、小泉らが来たのは午後一〇時三〇分ころとしたうえで、三葉工業の宴会客でない三名のいたテーブルに行って応対をしていた午後一〇時ころ席を外して子供達の様子を見に行ったと供述し、同日付け(五枚綴りのもの)《検17》では、被害者を確認したのは午後一〇時ころとしたうえで、そのときの被害者の様子などを供述していたが(なお、巡作成の7/17付け電話聴取書《検1》によると、甲野方から井原駐在所へ被害者の行方不明の通報をした際も、被害者を最後に確認したのが午後一〇時ころであると告げていたと認められる。)、7/24付け検面で、先のように述べたものである。

ところで、三宅熊二は、その7/18付け員面《検76》で、午後一〇時三〇分ころに甲野に行ったが、店に入ったとき中央の大きなテーブルには今まで客がいたように皿やビール瓶等が積み上げられており、私達はこれでは座れないと思い右奥のテーブルに一旦は座った、しかし、中央のテーブルを夏子が片付けていたので、私達も手伝い、中央のテーブルで飲み出した旨供述している。

そして、三宅らが甲野ドライブインに入った時皿等が積み上げられていたという中央のテーブルで飲んでいたのは、最初の明日の会のグループであることは疑いないところである。

そうすると、最初の明日の会が甲野ドライブインを出た時刻と三宅らが甲野ドライブインに入った時刻との間には多少の時間的ずれがあったことになり、この点は夏子の前記検面の最初の明日の会が帰ってから小泉らが来店したとの両者の入出店状況に関する供述と合致している。また、最初の明日の会のグループが帰る際、夏子も当然立ち上がったであろうから、そのついでに子供達の様子を見に行ったということは十分考えられる。これらからみると、夏子の前記検面の供述は、一応信用できそうにも思える。

しかしながら、夏子は、7/17付け等の員面で、最初の明日の会が帰ったのが午後一〇時三〇分ころ、三宅らが来たのが午後一〇時三〇分ころという概ね正確と思われる時刻を指摘しつつ三葉工業の三名のいたテーブルに行って応対をしていた午後一〇時ころ席を立って子供達の様子を見に行ったと供述していたものであり、この供述も相応の具体性を有していることを否定できないうえ、午後一〇時三〇分ころ客の入れ替わりのあったことは間違いないにしても、7/24付け検面の供述は、その供述自体からして、必ずしもその機会に子供達の様子を見に行ったとの明確な記憶を喚起して述べられているものではないことが窺えるのであり、これらに照らせば、夏子が生前の被害者を最後に確認したのが午後一〇時ころから午後一〇時三〇分ころの間であるとはいえても、午後一〇時ころでなく、午後一〇時三〇分ころであるとは断定できないのである(換言すれば、夏子が被害者を確認した時刻が午後一〇時ころであったことを否定できない。)。

5  七月一六日夜の甲野ドライブイン店内の状況

七月一六日夜は、三葉工業株式会社の宴会も入り、甲野ドライブインには多数の客が来店しており、夏子はその応対等に忙殺されていた。

当夜来店した客は、合計三十五、六名であり、被告人以外はいずれも連れがおり(三葉工業株式会社の宴会客が一三名(藤原、寺本、新屋、原田、湯浅、五島学、北村誠、田丸浩二、植田、野田悟、有田実蔵、宮本、佐々木義夫)、宴会客以外の同社の者が三名(日高、牧野、仏園)、町役場の者が二名(上田、大石)、明日の会のグループが五、六名、小泉義則らのグループが四名、後から来店したもう一組の明日の会グループが七名(水野正行、熊山、小笠原、上田、寺内、今川隆、猪山進))、単独で来店したのは被告人だけであった。

甲野ドライブインにいた客の人数を、午後一〇時四〇分ころでみると、店舗に二〇名位(被告人を含む。)、宴会場八名位、合計二八名位であり、夏子と従業員の渡竹代を含めると、当時甲野ドライブインの建物内には大人が三〇名位いた。

被告人が店を出た午後一一時三〇分ころでみると、客の人数は、店舗に一一名位、宴会場に七名位の合計一八名位であり、夏子と渡を含めて、当時二〇名位の大人が甲野ドライブインの建物内にいた。

午前〇時三〇分ころ(一七日)でみると、客の人数は合計一五名(このころ水野の運転する車で帰った、後から来た明日の会のグループ七名を含む。)であり、夏子を含めると、当時甲野ドライブインの建物内にいた大人の人数は一六名であった。

さらに一郎が帰宅した午前〇時四〇分ころでみると、客の人数は八名で、甲野ドライブインにいた大人の人数(夏子を含み、一郎を除く。)は九名であった。

店は、後記のとおり午前一時前ころ閉店したが、宴会場には閉店近くまで三葉工業の宴会客の一部が残っていた。

6  閉店時刻

店は、最後の客である、小泉らのグループ四名(これらの者は旧農協ガソリンスタンドに駐車してあった三宅の車に乗り、三宅の運転で帰った。)、三葉工業の宴会客の佐々木、藤原、新屋(これらの者は、右小泉らより一足遅く店を出、右ガソリンスタンドに駐車してあった佐々木の車に乗り、佐々木の運転で帰った。)、タクシーを呼んでこれに乗って帰った人物(三葉工業の宴会客の宮本とみられる。)が帰り、一七日午前一時前ころ閉店した。

7  被害者の行方不明から死体発見まで

七月一七日午前〇時四〇分ころ、一郎は、甲野ドライブインに帰ってきた。一郎は、一階北側の勝手口から入り、寝室に行った。

寝室には、二郎は二段ベッドの上段に寝ていたが、被害者はいなかった。

しかし、一郎は、店が忙しい日でもあるので、どこかに泊まりに行っているものと思い、気に掛けなかった。

夏子は、閉店後、後片付けなどをした後、午前一時一五分ころ、寝室に入ったが、その際、被害者のいないことに気付き、一郎も初めて被害者が行方不明になったことを知った。

二人は、すぐに家の内外を捜したが、見当たらず、被害者が泊まりに行ったことのある大字皆井田のスナック喫茶ニューサカタこと三宅方に電話したが被害者は行っていなかったので、一郎の実父で近くで甲野旅館を経営している甲野三郎のもとに協力を求めに行った。一郎は、自分の車に乗り、夏子は歩いて、甲野旅館に行った。一郎が甲野旅館に着いたのは、午前一時二〇分ころである。

夏子は、甲野旅館からの帰り、その近くの渡方にも立ち寄り、渡にも協力を依頼した。

そして、一郎、夏子、三郎・政子夫婦、渡、駆け付けて来たニューサカタの三宅らと被害者を捜したが、見付からないため、近くに住む親戚の小笠原実方、服部隆方にも連絡がなされ、午前二時二〇分少し前ころには、川本警察署井原駐在所にもその旨の通報がなされた。

通報を受けて、井原駐在所の高山直樹巡査や川本署当直勤務の八幡垣満巡査などが順次駆け付けて、一郎、夏子、三郎、政子、渡、三宅、小笠原実・タミエ夫婦、服部隆・ノブ子夫婦、隣家の兎谷秀美、野田十四秋らと捜索に当たり、午前五時三〇分すぎからは、近隣の人達も加わり、午前六時三〇分ころには、川本署の遠藤謙三刑事課長も臨場し、さらに午前七時三〇分ころには、地元消防団に非常招集がかけられ、捜索が続いた。

その結果、午前九時五五分ころ、近隣者で捜索の実質的指揮をとっていた岡部茂が、大字井原〈住所略〉の本件梅林内において、被害者の死体を発見した。

8  発見者などの行動

被害者の第一発見者岡部は、被害者を捜しながら上の方から本件梅林の入り口付近に下りて来たところ、北方先の草むらの中に白いものが見えたので、梅林に入って行き、被害者を発見し、「おったぞ。」と大声で叫んだ。

この後、岡部は、ひょっとしたら生きているのではないかと思い、うつ伏せの被害者のふくらはぎの辺り(同人は、7/20付け員面《検4》で、「ももの辺り」と表現しているが、生死を確認するために触れたのであるから、このももとは、当時露出していた下腿部裏側、すなわち、ふくらはぎのことを指しているものとみられる。)を触ってみたところ冷たくなっていたので、さらに顔を左の方に向けて抱え上げてみたところ、硬直しており、鼻から血も出ていたので死んでいると思い、元どおりのうつ伏せにした。

死体発見現場には、その後、岡部の「おったぞ。」の声を聞いた一郎が駆け付けて来た。

駆け付けてからの一郎の行動であるが、岡部は、7/18付け員面《検3》で、小笠原実、矢上駐在所さん、一郎の順序で駆け付けて来た、一郎は、変わり果てた娘の姿を見てすがりついて泣いておりましたが、矢上駐在所さんが「現場をそのままにして下さい。」ということから、死体をその場に置いて一郎を連れて甲野ドライブインに帰った旨述べている。

しかし、岡部の7/20付け員面中には、小笠原実、矢上駐在所さん、一郎の順で梅林に駆け付けて来ましたがこの後警察の人がやって来られるまで誰も被害者の死体には触っておりません旨の供述も存する。

そこで一郎が被害者にすがりつくという行動が果たしてあったかどうか検討するに、7/18付け員面の右供述中、駆け付けた順について述べる部分は、小笠原実の7/20付け員面《検120》に照らし明らかに信用できないが(この点は岡部の7/20付け員面に関しても同じことがいえる。)、そのような部分はあっても、一郎がすがりついて泣いていたとの部分は、その内容に照らし、記憶違いということはあまり考えられないこと、7/20付け員面では単に右のように述べているだけで、7/18付け員面のすがりついて泣いていたとの供述が誤りであったともこの供述を訂正するとも述べていないこと、両調書を通観すると、岡部は7/20付け員面で、7/18付け員面とは異なることを述べようとしたものでなく、7/20付け員面の「この後」という表現が言葉足らずで、「一郎がすがりついた後は」と理解することも可能であることを考えると、一郎がすがりついた事実がなかったとすることはできないのである。

なお、小笠原実は、その7/20付け員面で、店の前にいて「おったぞ。」等の声を聞き、現場の方へ行きかけると、一郎が私を追い越して行った、私が現場に着いた時には被害者の左側に一郎が少し離れてしゃがみこんで泣いていた旨述べるが、一郎が当時三二歳であったのに対し、小笠原は当時六一歳であったこと、死体発見現場に行くには、垂直距離で約一〇メートルを上らなければならないことを考えると、一郎が現場に到着したのと小笠原が現場に到着したのとは多少の時間差があったとみられるのであって、小笠原の供述から、岡部の7/18付け員面のすがりついたとの供述が誤りであるとの結論は導きえないのである。

9  捜査本部の設置等

死体発見後まもなくの一七日午前一〇時ころ、体育館に川本警察署長を本部長とする捜査本部が設置され、本格的な捜査が開始された。

川本警察署には、小笠原義治次長以下が残った。捜査本部と川本警察署との連絡は、無線、電話などでなされていた。川本警察署では、森山順藏警部補らが令状請求事務等を処理していた。

当日、死体発見現場付近の検証が午前一一時三五分から午後五時三〇分まで(以下これを「昼の検証」ということがある。)、甲野ドライブイン付近の検証が午後五時一五分から午後八時一五分まで(以下これを「夜の検証」ということがある。)行われた。

また、昼の検証に併せて、午後一時から午後一時四五分まで死体発見現場で検視が行われ、その後、死体は、島根医科大学法医学教室剖検室に運ばれ、午後五時二〇分から午後七時五五分まで、田中良検察官、森山警部補、佐藤信光警視ら立会いのもとに、医師福井有公が解剖した。

10  昼の検証時の死体発見現場及び死体の状況の概略等

被害者の死体は、雑草の相当密生している本件梅林の入り口から四本目の梅の木の近くにあった。被害者は、パジャマ上衣(符2)、パジャマズボン(符3)、パンツ(符4)を着用し、うつ伏せの状態で、頭を東南東に向け、両腕は体に沿って真っすぐ伸ばし、手の平をいずれも上方に向け、両脚を少し開き、裸足で死んでいた。四本目の梅の木は死体頭部の東側にある。

着衣は、パジャマズボンの右後ろ上縁が内側にまくれ込んだり、パジャマ左後ろ上縁が外側にまくれ込んだりの乱れがあった。パジャマ上下背面、パンツ等に黒褐色泥状のものが付着しておりパジャマ前面は上下とも湿っていた。

パジャマや被害者の肌等には、雑草片等が付着しており、外陰部に雑草片一片がはさんであった。

首には索条痕が残されており、口腔内には泥状のもの等があり、鼻部及び口唇部には血液が付着し、顔面等に表皮剥奪等の損傷があり、顔面部に該当する地面に直径約一〇センチメートル大の円状に血液が付着し、その部分はへこんでいた。

陰部から出血があり、パンツ、パジャマズボンの陰部付近に血液が付着していた。

昼の検証時、被害者の死体付着の雑草片等、口腔内の泥状のもの等が鑑定ないし鑑識資料として採取されたほか、ゼラチン紙三〇枚により被害者の着衣、肌から微物採取がなされた。

なお、本件梅林ないしその付近から、足跡、指掌紋も採取されたが、員作成の7/25付け鑑定結果回答書《検43》、島根県警察本部刑事部鑑識課長作成の7/21付け現場指紋等対照結果通知書《検370》によると、対照の結果、この中には、被告人の足跡、指掌紋に合致するものはなかった。その他被告人のみが残しうる固有の証跡は、この日あるいはそれ以降においても、被害者の死体、あるいは、本件梅林ないしその付近から発見されていない。

11  夜の検証時の甲野ドライブイン寝室付近の状況の概略等

寝室南側敷地の寝室南窓の前には、「河畔の宿甲野」と書かれた横約一八三センチメートル、縦約九三センチメートルの看板(符22)が表を上にし、溝をまたいで倒れていた。犬走りの上の瓦や上に置かれている発泡スチロールの箱一個には異常はなかった。南窓の外枠は薄青色のペンキで塗装されているが、塗料がはげかかっており、窓の下の犬走りの上に、外枠の塗膜片が多数落ちていた。窓を開閉して実験すると、窓枠の塗膜片は容易に落ちる状況であった。南窓のガラスからは指紋等の痕跡は発見されていない。

足跡が倒れていた看板下やその周辺等にあったので、石膏法により、看板下(看板に完全には覆われていないものも含む。)から四個(員作成の7/30付け検証調書《検29》添付見取図3の番号35ないし番号38の足跡。なお、このうち、後述のように番号35、番号37の足跡は看板のへりにかかっていた。)、看板の近くから一四個、寝室東側から二個の、合計二〇個の足跡を採取した(正確には、この個数は石膏の個数である。実際には、一個の石膏に一個の足跡でなく数個の足跡の含まれているものがかなりあるため、石膏の数でなく足跡そのものの数で数えると、合計は五〇個位にはなる。)。このうち看板下の足跡の中に被告人の足跡が含まれていたのであるが、この被告人の足跡の問題は後に詳しく触れる。

指掌紋は、看板から六個、住居部玄関の下駄箱から一個、一階便所上がり口片開き戸の枠から三個、寝室内から七個採取したが、島根県警察本部刑事部鑑識課長作成の7/21付け現場指紋等対照結果通知書《検370》、員作成の63/12/5付け現場指掌紋等対照結果報告書《検371》によると、看板から採取した六個のうち二個以外は対照不能であり、対照可能な二個は、被告人ら関係者の指紋に符合せず、川本警察署警察官八幡垣満の左示指指紋、右手掌紋と符合した。

寝室内から盗まれたものはなかった。

12  解剖結果

福井作成の10/6付け鑑定書《検106》、福井四回証言、員作成の7/20付け解剖立会報告書《検36》によれば、次の事実が認められる。

被害者は、身長一一五センチメートル、体重一七・五キログラム、血液型はA型である。

死因は、窒息死で、主たる死因としては、絞頸、従たる死因としては、溺水、口鼻部の圧迫が考えられる。

頸部には索溝があるが、筋肉内には出血が認められず、舌骨及び咽頭諸骨に骨折はない。一般の大人が力一杯絞めたという状態ではない。

肺の割面で泡沫液が多量に認められ、口鼻腔から気管支に至る気道内に著明な桃色微細泡沫及び水様物が多量に認められる。左右の肺とも同様である。プランクトン検査では、肺のみ陽性、肝臓及び腎臓は陰性で、いわゆる溺水のみによる死亡とは断じがたい。水を吸引したことにより、呼吸障害による生体抵抗機構の高度の減弱を来たし(放置すれば遷延死を招く可能性があった。)、死者の絞頸窒息死に大きく関与したものと考えられる。皮下の部位に生活反応があり、絞頸時には被害者は生存していた。

頸部及び項部に認められた一連の赤褐色帯状の表皮剥奪は、索条物を巻き付け、絞頸することによって生じたいわゆる索溝である。

索溝の状態は、以下のとおりである。

右側頸上部でおとがい正中の一・五センチメートル下、七センチメートル右の右下顎角下部に相当する部位(前記鑑定書図5で3-(1)と表示された部位)から左方へほぼ水平に伸びて、前頸、左側頸及び項正中を経て、右項に至る。その右項部で二・五×二センチメートルの範囲に不整形の表皮剥奪を形成している(後記結節状部分)。右表皮剥奪部分からは索溝が左方に二本伸びていて、そのうち、一本は、頸部を一周して再び同表皮剥奪部分の下端部に続き、その後、さらに左方に伸び、胸骨上端の五センチメートル上、三・五センチメートル右で終わる。また、右表皮剥奪部分から左方に伸びる他の一本は、前頸部正中やや右(胸骨上端の八センチメートル上、一センチメートル右)で終末に至る。

索溝の幅は、最小〇・三センチメートルから最大一・一センチメートルであるが、その多くは〇・三センチメートルから〇・五センチメートルの間である。これらのことから、頸部索溝を生ぜしめた索条物の直径は、およそ〇・三センチメートルから〇・五センチメートル程度と推定されるが、受傷部の組織弾性及び索条物と受傷部との相対的な動き(ずれ)による索溝の拡大の可能性を考えると、右数値よりも小さな直径を有する索条物によっても生じうる。また、右項部に認められた不整形な表皮剥奪の性状と、この部位における索溝の交錯の状況とから判断すると、絞頸時において索条物は、この右項部において結節を形成していた可能性が強い。典型的な索条物による索状痕の所見とは異なる。

被害者の死亡は急死であることなどからして、まず水の吸引があり、その後、死亡の直前に絞頸があったと考えられる。

被害者の外陰部(大陰唇部に軽度の発赤、処女膜が多数の部位で断裂)、子宮(子宮頸膣部に粘膜下出血)に損傷がある。損傷部位に生活反応があり、損傷時被害者は生存していた。

膣内から精子は発見されず、解剖所見だけからは、姦淫の有無は判定できない。

陰部の損傷と水の吸引の前後は、解剖所見だけでは判定できない。

鼻血は生存中の出血である。絞頸時の可能性もあるが、舌の表面、上下の口唇部などに圧迫痕があるので、それに伴って鼻腔内の出血が起きたと考えるのが、一番自然である。

右下肢で膝蓋骨上縁の一センチメートル左に、〇・九×一センチメートルの表皮剥奪がある。食道内は空、胃内に、半消化の米飯粒、わかめ、にんじん、わらび、野菜等が約一〇〇ミリリットルあった。十二指腸内に、淡黄色泥状物が少量、小腸上中部に、黄緑色泥状物が少量、下部に中等量があった。大腸上行部には、便状物が少量、下部に中等量あった。

死亡推定時間は、七月一六日午後九時から同一七日の午前三時までの間である。

なお、右の食物の消化状況と関連して、福井は、四回公判で、被害者の食後経過時間について、子供についてのデータが少ないとの問題はあるが、食後二、三時間プラスマイナスの誤差程度であろうと証言している。そして、弁護人は、これを根拠に、被害者は午後七時ころに夕食を済ませたのであるから、午後一〇時ころには死亡していたということになり、一方、被告人は、午後一一時三〇分ころまで店舗内にいたのであるから、被告人は本件を犯しえないと主張している。

しかし、弁護人作成の元/10/17付け報告書《弁18》添付の上野正吉著「新法医学」抜粋によっても明らかなように、「普通の人が普通の食物を摂ったとき、胃及び十二指腸に食物があり、しかも相当消化しているときは大体食後二、三時間経過、胃内に食物なく、十二指腸内になお固形の食物残渣あるとき食後四、五時間経過」とみられるが、「食物の消化管内の移動及び消化の程度はその食物の状態、その個人の精神及び肉体的状態、睡眠中かどうか、疾病、外傷の有無等によって甚だしく変動がある」ものなのである。

ところで、夏子の7/17付け員面《検13》によれば、夕食時渡が被害者があまり食べないと言うので、夏子が代わって行き、被害者に食べるよう注意して食事させているというのであって、当日の夕食時被害者の食欲が必ずしも十分でなかった様子が窺えるうえ(なお、被害者は、夕食後ぶどうを貰いに行くという行動をとっていたのであるから、食欲がひどく不振であったとまではいえない。)、被害者は、午後九時すぎから夏子の被害者確認時までの間には就寝しているのであり、さらに犯人に連れ出された後は、被害者は不安・恐怖状態に陥り、また、溺水により生体抵抗機構の高度の減弱を来しているのである。

したがって、被害者の消化状態から食後経過時間を割り出すにはかかる条件を考慮に入れなければならないが、福井証言はこれらの点を考慮したうえのものでないことはその証言自体から推知しうるところであり、そうであれば、福井証言があるからといって、直ちに、被害者が夏子が最後の姿を確認してまもなく連れ出され殺されたとすることはできないのである。

もっとも、そうはいっても、被害者が就寝した等の条件は、午後一一時三〇分以降でも胃内に食物の残ることを積極的に根拠付けるものでもないことはいうまでもない。

13  被害者に付着していた植物について

島根大学教授西上一義作成の9/25付け《検107》、12/12付け《検334》各鑑定書、員作成の7/17付け鑑識資料採取報告書《検44》、員作成の8/4付け「対照資料の採取について」と題する書面《検70》等によれば、次の事実が認められる。

一七日の昼の検証で被害者の身体に付着の雑草片等が採取されたが、その後八月四日に、西上立会いのもとに、死体発見現場及び七月二四日の現場引き当たり検証の際被告人が供述した強姦現場付近(62/7/14施行裁判所検証調書の9地点付近、員作成の7/29付け検証調書《検114》の(へ)地点付近。なお、以下右引き当たり検証時被告人が供述した強姦現場を「自供強姦現場」ということがある。)の植物の採取がなされ(死体発見現場では、被害者の死体があった位置を中心に三×三メートルの範囲で採取した。)、これを対照資料として、西上において、これら雑草片等の植物名等の鑑定をした。

西上の鑑定によれば、被害者の陰部にはさまれていた雑草片(前記鑑定資料採取報告書記載の資料P)は、ノガリヤスであった。八月四日採取の植物と照らし合わせてみると、ノガリヤスは、死体発見現場で採取された植物中にはあるが、自供強姦現場付近で採取された植物中にはない。

被害者の臀部に付着していた雑草片(Q)はヤマノイモの葉の一部分であった。八月四日採取の植物と照合してみると、ヤマノイモは、死体発見現場で採取された植物中にはあるが、自供強姦現場付近で採取された植物中にはない。ただし、七月二九日、ヤマノイモの引っ張り強度実験のため、ヤマノイモ四本の採取が行われているが、その際には、自供強姦現場付近の東南角辺りからも一本ヤマノイモを採取している(巡作成の7/29付け実験資料採取報告書《検130》)。

被害者の後頭部付着の雑草片(R)中の茶色小片の植物は、ネザサであった。八月四日採取の植物と照合してみると、ネザサは死体発見現場で採取された植物中にはあるが(前記8/4付け「対照資料の採取について」と題する書面添付の図面によれば、ネザサは死体の頭の位置付近等から採取されている。)、自供強姦現場付近で採取した植物中にはない。

被害者のパジャマ上衣の腰部付着の笹の枯れ葉(E)は、イネ本科の植物と思われるが種は不明、枯れ葉(F)は、カモジグサに類似するが、断定できないと判定された。八月四日採取の植物と照合してみると、カモジグサは死体発見現場で採取された植物中にはあるが、自供強姦現場付近で採取された植物中にはない。イネ本科の植物は、死体発見現場でも自供強姦現場でも採取されている。

被害者の左手首付着の藁くず様のもの(A)は、カモジグサ、被害者の左上腕後面部付着の松葉様のもの(C)、パジャマ上衣左肩甲骨部付着の雑草(D)は、ノガリヤスであった。

被害者の左足ふくらはぎ後ろ側付着の雑草の葉(I)、パジャマ上衣の左肩部(B)付着の雑草の葉は、ナガバヤブマオ、被害者右上腕後面下部付着の雑草片(L)は、ミツバであった。ナガバヤブマオ、ミツバは、八月四日死体発見現場で採取された植物中にはあるが、自供強姦現場付近で採取された植物中にはない。

また、前記のとおり、一七日の昼の検証で、被害者の着衣、肌からゼラチン紙三〇枚で微物採取がなされているが、右ゼラチン紙のうち、前頸部のもの一枚、後頸部のもの二枚について、西上において、付着の植物名等の鑑定をしたところ、前頸部ゼラチン紙からは、ミツバの葉に類似の葉、チヂミザサの茎の毛、ニンドウの茎の毛、ゲンノショウコの葉の表面の毛に類似する毛が多数観察され、後頸部ゼラチン紙からは、キヅタの葉の裏面の毛、植物性由来と思われる組織が多数観察された。

八月四日西上立会いで採取した植物と照合してみると、ニンドウ、キヅタは死体発見現場で採取された植物中にも自供強姦現場付近で採取された植物中にもあるが、ミツバ、チヂミザサ、ゲンノショウコは死体発見現場で採取された植物中にのみある。

前記「対照資料の採取について」と題する書面添付の図面によると、ミツバ、チヂミザサ、ゲンノショウコは、いずれも被害者の頭のあった位置付近から採取されており(この位置付近以外からも採取されている。)、また、事作成の元/2/9付け捜査報告書《検391》添付の写真10等によれば、死体の顔があった位置に、ミツバ、チヂミザサの生えていることを確認しうる。

一方、ニンドウ、キヅタは、八月四日の植物採取時、死体の頭のあった付近には存在しなかったとされており(前記「対照資料の採取について」と題する書面)、かつ、一七日の昼の検証時撮影された写真等関係の写真をすべて調べても被害者の頭のあった位置付近にニンドウ、キヅタのあることを確認出来ないので、これらは死体発見時被害者の頭付近の位置には存在しなかったものとみられる。

前頸部付着のミツバの葉に類似の葉、チヂミザサの茎の毛、ゲンノショウコの葉の表面の毛は、右に述べたところからして、死体の発見された位置に生えていたミツバ、チヂミザサ、ゲンノショウコから直接付着したとみることも可能であるが、前頸部付着のニンドウの茎の毛、後頸部付着のキヅタの葉の裏面の毛は、これとは別の経由で付着したものとみられる。

14  朱色塗膜片等

研究所技師作成の8/26付け鑑定書《検55》、員作成の7/17付け鑑識資料採取報告書《検44》、日立金属株式会社安来工場冶金研究所所長清永欣吾作成の8/20付け鑑定書《検147》等によると、次の事実が認められる。

一七日の昼の検証時、被害者の着衣及び肌からゼラチン紙三〇枚による微物採取がされたこと前記のとおりであるが、研究所技師香川昌人は、このゼラチン紙のほか、被害者のパジャマ上衣(符2)、パジャマズボン(符3)、パンツ(符4)について塗膜片が付着しているか否か等の鑑定をした。

その鑑定結果によれば、ゼラチン紙三〇枚を肉眼観察したところ、ゼラチン紙番号一(被害者のパジャマ上衣背部を上中下に三分した上部にあてがったもの)に一個、番号三(同じく下部にあてがったもの)に一個、番号五(パジャマズボン左大腿部後ろから左ひざ後ろ付近にあてがったもの)に三個、番号七(パジャマズボン右大腿部後ろから右ひざ後ろ付近にあてがったもの)に一個の、合計六個の塗膜片が付着しており、色はいずれも朱色であった。

ゼラチン紙番号一付着の塗膜片一個は、その付着位置からして、元は被害者のパジャマ上衣背部正中で首に近い位置に付着していたと認められ、ゼラチン紙番号三付着の塗膜片一個は、その付着位置からして、元は被害者のパジャマ上衣背部正中で腰よりやや上付近の位置に付着していたと認められ、ゼラチン紙番号五付着の塗膜片三個は、その付着位置からして、元は被害者のパジャマズボン左大腿部後ろ正中から左か右かのいずれかにややずれた位置にまとまって付着していたと認められ、ゼラチン紙番号七付着の塗膜片一個は、その付着位置からして、元は被害者のパジャマズボン右大腿部正中より左か右かのいずれかにややずれた位置に付着していたものと認められる。

この六個の朱色の塗膜片の性状、由来等については、後に詳しく触れる。

前記ゼラチン紙三〇枚を顕微鏡(一六ないし四〇倍)で検査したところ、一八枚に塗膜様のもの(色は、朱、緑、青、薄青緑、赤褐色)の付着が確認された。しかし、微量のため化学的検査には付されず、したがって、これが塗膜片かどうかは不明である。(塗膜様のものとしては、塗膜片のほか、色鉛筆、クレヨンその他の微細片等が考えられる。)。

また、被害者のパジャマ上衣、パジャマズボン、パンツについて、ゼラチン転写し(一七日の昼の検証で、一回ゼラチン転写しているので、鑑定時の転写は二回目ということになる。)、ゼラチン紙を肉眼及び顕微鏡で観察したところ、肉眼では塗膜片の付着は確認できなかったが、顕微鏡では朱、白、薄青、薄緑、青灰、青緑、緑、黄、赤、茶、灰色の塗膜様のものの付着を確認できた。しかし、微量のため化学的検査には付されず、この塗膜様のものが塗膜片かどうかは不明である。

15  口腔内の泥について

研究所技師清水正敏作成の8/6付け島科研第六〇四号鑑定書《検49》、員作成の8/3付け電話聴取書《検247》、員作成の「鑑識資料採取及び精液落下位置等の検索について」と題する書面《検228》等によると、次の事実が認められる。

一七日の昼の検証で死体発見現場で被害者の口腔内から泥を採取したが、この泥と、同検証の際に、同現場で被害者の死体の付近から採取した対照用現場泥との同一性を、清水において鑑定したところ、両者は、外観的色調、主な夾雑物の種類、土壌粒子の比重的分布状態のいずれもが一致し、同質のものであった。

なお、右口腔内の泥と、被告人の自供に基づき七月二〇日野田方前の側溝二か所から採取した溝底の泥土との同一性を、清水において鑑定したところ、両者は異質のものであった。

16  犯人の犯行状況等

ここで、以上に述べたことなどから、犯人の犯行がどのようなものであったか(ただし、ここでは要点のみの検討に止どめ、立ち入った検討は、関連の箇所で、個別的に行うこととする。)、また、犯人像としてはどのようなことが考えられるのかについて検討しておくことにする。

(一) 連れ出し可能時間帯

犯人が被害者を連れ出しえた時間帯は夏子が被害者が寝室で就寝しているのを確認した一六日午後一〇時ころ(被告人に有利に午後一〇時ころとして論述を進める。)から一郎の帰宅した一七日午前〇時四〇分ころの間である(なお、食物の消化状況を根拠に右連れ出し可能時間帯の終期を遡らせることは困難である。)。

(二) 連れ出し態様

当夜の男性宴会客中に店舗玄関から帰らなかったものがいると疑うべき事情は存しないこと(寺本、原田以外の男性宴会客が店舗玄関から帰ったことは明らかである。また、寺本、原田についてみると、三宅熊二の7/18付け員面《検76》によれば、被告人も帰った後の遅い時間帯に、宮本とともに宴会場から店舗に出てきて宮本を店舗内に残しそのまま店舗玄関から帰った三葉工業の宴会客が複数名いたこと、すなわち、宴会客中この時少なくとも二名は店舗玄関から帰ったことが窺えるところ、証拠上この時帰った可能性のあるのは寺本、原田の二名のみであり、それ以外の者はこの時に帰っていないこと明らかであるから、右両名がこの時店舗玄関から帰ったのであろうと推定できる。)、宴会客以外の客(被告人を除く。)はすべて店舗内でグループで飲んでいた客であることからして、犯人は店舗、宴会場から被害者に接近したものでなく、屋外から被害者に接近したものとみられる。

被害者は、裸足で発見されていることなどからして、連れ出された当時、屋内にいたことは明らかである。

夏子の7/20付け員面(一三枚綴りのもの)《検14》によれば、被害者は夜トイレに起きるようなことはなかったというのであり、被害者は夏子が寝室に子供達の様子を見に行った時には就寝しており、かつ、就寝してから連れ出されるまでの間に長時間あったわけではないのであるから、犯人が被害者に接近した際も寝室で就寝していた蓋然性は高い。

当時、店内には客等が相当数おり、寝室内には二郎もおり、かつ、寝室には蛍光灯が点灯していたのであるから、直ちに住居部玄関から廊下に上がり廊下から寝室内に立ち入り被害者を連れ出すことにはかなり発覚の危険が伴っていたことは間違いない。したがって、犯人は、この危険を少しでも減じようと寝室南窓付近まで近寄って(犬走りに立ち入って)子供達の寝静まっていることなどを確認した後住居部玄関から寝室に立ち入るとか、寝室南窓付近まで近寄って(犬走りに立ち入って)被害者を廊下におびき出し住居部玄関から廊下にいる被害者を連れ去るとかの行動に出た可能性は相当高いと考えられる。しかし、犯人はこのような危険にあまり頓着せず、あるいは、このような危険のないことを見越して直ちに住居部玄関から寝室に立ち入ったというような可能性も否定できない(ただし、被害者のパジャマ背面に付着していた朱色塗膜片が寝室南窓前に立て掛けてあった看板由来のものであり、かつ、これが、犯人経由で被害者に付着したこと、あるいは、右看板を倒したのが犯人であることが肯定できれば、犯人が寝室南窓付近まで近寄ったと断定できる。)。

(三) 連れ出し目的

被害者は、午後一〇時以降という深夜就寝していた寝室内から連れ出され、犯人により陰部に前記のごとき損傷を受けている。パジャマズボン(符3)の裏は下部まで泥が付着しているが、これは、犯人が被害者を寝かせて、パジャマズボンを足首付近あるいはそれ以上脱がせたため、その時裏返って汚れたものと認められる。パンツ(符4)もほぼ裏にだけ泥が付いているが、これも、脱がすときに裏返り、泥で汚れたものと認められる。そして、犯人は被害者を最終的には殺しているのである。

これらの事情、なかんずく、右の連れ出しの時間帯が昼間でなく深夜であり、かつ、就寝していた寝室から連れ出したという異常な状況からして、単なるいたずら目的によってこのような連れ出しが行われたとは思えないのであって、犯人に強姦目的があったと推定してよいと考える。

(四) 強姦行為

被害者は、陰部に損傷を受けているが、右損傷の成因としては、指のみによる、陰茎のみによる、指と陰茎によるの三通りが一応考えられる。

膣から精子は発見されなかったこと前記のとおりであり、一七日の昼の検証時被害者の陰部付着の血痕様のものを拭き取ったガーゼ片(四・五×六センチメートル)、被害者のパジャマ上衣(符2)、パジャマズボン、パンツ、一七日の死体解剖時ガーゼに付着させた膣内物、同解剖時スライドグラスに付着させた膣内物からも、精液、精子は発見されなかった(研究所技師犬山玲子作成の8/6付け島科研第六〇四号鑑定書《検50》、研究所技師作成の8/19付け鑑定書《検58》)。したがって、犯人は膣内あるいは陰部近くで射精することはしていないと認められる。

理由としては、勃起しなかったため指だけになった、勃起はしたが、挿入が無理などのため挿入をやめて手淫したなどが考えられるが、確定はできない。

(五) 強姦現場

被害者のパンツ(符4)の尻部分の裏側がひどく泥で汚れており、パジャマのズボン(符3)の裏側や表後ろウエスト付近もかなり泥をすったような跡がある。強姦行為に及んだ場所は、被害者のパンツ、パジャマズボンをこのように汚すことのできる場所ということになる。

死体発見現場は、かなり雑草が密生しており、死体発見現場でパンツ、パジャマズボンを脱がせても、このようには汚すことはできないと思われること(遠藤刑事課長も証人として四〇回公判でこれに沿う証言をしている。)、研究所技師清水正敏作成の8/6付け島科研第六〇四号鑑定書《検49》によると、一七日の昼の検証時採取された被害者の死体付近の泥の乾燥時の色調は黄茶色とされているが、この色調とパンツの裏側に現に付着残留している泥の色調とは異なっているように見えることからして、強姦行為の行われたのは死体発見現場の本件梅林以外の所と考えられる。

もっとも、強姦現場が本件梅林でないにしても、本件梅林以外に殺害を実行する場所はいくらでも見い出しうる状況下で、後記のように犯人が本件梅林で殺害を実行していることからして、強姦現場は本件梅林からはあまり離れていなかったであろうとは思われる。しかし、例えば、強姦現場が町道下町沢久谷線の西側ではありえないというような断定は困難である。

(六) 殺害現場

一七日の昼の検証で死体発見現場で被害者の口腔内から採取した汚泥と、同検証の際に、同現場で被害者の死体の付近から採取した対照用現場泥との同一性を検査したところ、両者は、外観的色調、主な夾雑物の種類、土壌粒子の比重的分布状態のいずれもが一致し、同質のものであったこと前示のとおりである。このことと、うつ伏せの被害者の顔面部に該当する地面がへこみ、このぼっ痕内には表皮剥奪の原因となりうる小竹等があり、他方、顔面には表皮剥奪等の損傷が存したこと、鼻部及び口唇部に血液が付着し、ぼっ痕にも血液の付着があったこと、解剖所見によれば、鼻腔内の出血は生存中の出血であり、舌の表面、上下の口唇部等に圧迫痕があるので、この出血は右圧迫痕とともに生じたと考えるのが最も自然であるとされていることなどを考慮すれば、犯人は、別の場所で被害者を殺してこの死体発見現場に遺棄したものでなく、この死体発見現場で被害者を絞頸してすぐに被害者の顔面を地面に強く押し付け息の根を止めたものとみてよいであろう。

(七) 殺害の凶器

索溝の形態からして、絞頸は、ベルト、コード、布紐、荷造り紐等の典型的な索状物によってなされたものでないことは明らかで、犯人はあらかじめ索状物を用意していたものでないと認めうる。

そこで、死体発見現場付近に、この索溝の形態に合致する索状物があるかをみるに、この索溝には結節のあったことを窺わせる損傷がありながら、死体の首には索状物は結び付けられていなかったこと、索溝はこの結節状部分から枝分かれしていることが認められるところ、死体発見現場付近には、ヤマノイモ、キヅタ、ニンドウ等の蔓が生育しており(員作成の7/28付け検証調書《検30》、員作成の8/4付け「対照資料の採取について」と題する書面《検70》、島根大学教授西上一義作成の9/25付け鑑定書《検107》、員作成の57/3/5付け捜査報告書《検112》、巡作成の7/29付け実験資料採取報告書《検130》等)、このような蔓性植物であればこのような索溝を形成するにふさわしいものと認めうるのである。そして、死体発見現場付近にあるものでこのような形態の索溝を形成しうる索状物を蔓以外に考えることは到底困難であることなどに照らせば、被害者の死体の索溝を形成した索状物は蔓であり、犯人は種類はともかく(なお、研究所技師清水正敏ほか一名作成の8/18付け実験結果報告書《検132》、63/8/8施行裁判所検証調書によれば、ヤマノイモ、キヅタ、ニンドウのいずれでも絞殺可能の強度を有していると認められる。)、また、生育していたものであるかどうかはともかく、死体発見現場付近にあった蔓で被害者を絞頸したと認めることができよう。

(八) 被害者の溺水について

犯人は被害者に水を吸引させている。しかし、これは殺害の実行行為として行われたものではない。すなわち、本件の場合、強姦行為後に殺害行為のあったことは明らかであるが、強姦行為の後被害者を殺害するため水に漬けたというのであれば、そのまま水に漬け続けていればよかったのであり、本件のごとき状況で被害者の死体が発見されるということはなかったものと考えられる(なお、死体発見現場である本件梅林内には水を吸引させるような場所はない。)。

そうすると、犯人が被害者に水を吸引させたのは、強姦行為以前とみてよいであろう。

(九) 犯人像

甲野ドライブインの立地条件、建物の構造、寝室の位置、建物の裏には山が迫っていること、連れ出された時間帯が午後一〇時ころから午前〇時四〇分ころという深夜であること、当時店は営業中であったことなどを考慮すれば、この付近に全くつながりのない者が偶然に通り掛かり、かつ、偶然に建物内にいた被害者を見付け出し、本件犯行に及んだとは到底考えられない。本件はいわゆる流しの犯行ではなく、犯人は、被害者及び甲野ドライブイン一階の構造を知っており、かつ、被害者が甲野ドライブインの建物の東南角の八畳間に寝ていることを知っていたと認められる。

また、本件死体発見現場の梅林及びその付近は、梅、竹、杉、雑木等が生え、雑草の生い茂った山であり、一部開けて畑になっている部分はあるものの、この付近について全く知識のない者にとっては深夜立ち回ることに恐怖を感じるような場所である。ところが、犯人はこの山中に被害者を連れて入ったうえ、本件梅林で被害者殺害を実行しているのである。このことからすると、犯人は、本件梅林及びその付近の山について多少なりとも知識を有していた可能性は高いと考えられる。

このように、本件は、被害者を知り、甲野ドライブインの一階の構造や被害者がどこで寝るかを知っていた者の犯行で、その者は、甲野ドライブインの建物の裏山について多少なりとも知識を有していた可能性が高いとみられるのである。

二  被告人の経歴、事件当夜の状況、逮捕に至る経緯など

1  被告人の身上、経歴

被告人は、昭和一七年一一月一二日、農業を営む父二夫、母秋子の長男として出生し、同三三年三月石見町邑智中学校を卒業後、下関市内の叔父の経営する醤油販売店に三年間位勤務し、その後、京都市内の運輸会社に勤務していたが、同五三年一月本籍地に戻り、同年四月から九月まで石見町大字井原に所在する浜田職業訓練校石見分校に通い、同年一〇月から、同町大字井原にある森広鉄工に作業員として勤め、同五六年六月八日からは、同町大字矢上にある○○塗装店に塗装工見習いとして勤務していた。

被告人は、結婚歴はなく、独身である。同五三年本籍地に戻ってからは女性と肉体関係をもったことはなかった。

被告人には、前科、前歴はない。

被告人は、訓練校に通っているころから、その近くにある甲野ドライブインに行くようになり、その後同店の常連となった。被告人は、被害者や二郎とも顔見知りであり、かつて、甲野方の寝室で一郎にビールを飲ませてもらったこともあった。

被告人は、○○塗装店にバイクで通勤していたが、帰りに甲野ドライブインの近くの酒小売店下酒屋に寄っていわゆる買い飲みし、バイクをそこに置いて、甲野ドライブインに飲みに行くことが多かった。○○塗装店に勤めた同五六年六月八日から本件事件当日までの三九日の間に被告人が甲野ドライブインに飲みに行った回数は二一回である。

2  七月一六日の昼の仕事

一六日、被告人は、普段どおり、午前七時四〇分ころ、バイクで○○塗装店に出掛けた。

○○塗装は、三宅一が経営し、同人の弟の熊二、被告人、森脇弘志の四人で仕事をしていた。当日、被告人は、熊二と組んで、中野農協の簡易便所の外壁の吹き付け塗装、勤労会館の横のプールのポンプ小屋の外壁の吹き付け塗装、瑞穂楽器の外壁の鉄骨階段の塗装を行った。

作業は、午後五時三〇分ころ終了し、一旦○○塗装に戻って片付けなどをしてから、被告人は帰路に就いた。

3  下酒屋での飲酒

被告人は、当時仕事の後ほぼ毎日のように下酒屋に飲みに行っていたが、一六日も家には立ち寄らず、そのまま、午後六時ころバイクで下酒屋(日高タマヨ経営)に行った。

被告人は、そこで、日本酒二〇〇ミリリットルとビール大瓶二本、タマヨがふるまってくれたしそ焼酎少量(湯飲み茶碗三分の一)を飲んだ。そして、閉店近くの午後七時三〇分ころ、代金を付けにして、下酒屋を出て、バイクは同店横の空き地に止めたまま、徒歩で、すぐ近くの甲野ドライブインに行った。

ここで、被告人の当夜の服装、持ち物についてみると、被告人は作業衣上衣(符7)、作業衣ズボン(符6)、半袖白シャツ(符8)、パンツ、白色靴下を着用し、二五・五EEの運動靴(符5)を履き、ベルトを締め、腕時計をはめて、現金約七万八〇〇〇円等をポケットに所持していた。

4  甲野ドライブインでの被告人の様子

甲野ドライブインでの被告人の様子に関しては、夏子の7/17付け《検13》、7/20付け(一三枚綴りのもの)《検14》各員面、夏子の7/24付け検面《検18》、森前マリ子の7/18付け巡面《検27》、野田悟の7/17付け《検71》、7/18付け《検72》、7/19付け《検73》各員面、有田実蔵の7/18付け員面《検74》、猪山進の7/28付け員面《検75》、三宅熊二の7/18付け員面《検76》、水野正行の7/20付け巡面《検119》、五島学の7/21付け員面《検219》、田丸浩二の7/21付け員面《検220》、今川隆の7/23付け員面《検222》、小泉義則の7/22付け員面《検287》、北村誠一五回証言、夏子六四回証言、夏子期日外証言、売上メモ紙一枚(符1)、ノート二冊(符11)、売掛台帳二枚(符20)等多数の証拠があるが、これらを総合すれば、被告人がいつ店を出たか、被告人の飲酒量、酔いの状況などを除いて、概ね次のように認めることができる。

被告人は、午後七時三〇分ころ、甲野ドライブインに店舗玄関から入り、カウンター席に腰掛け、夏子にビールを注文した(なお、同店で出すビールは中瓶である。)。その際、被告人は、夏子にビールを注いでやった。夏子を相手にして、被告人は、しばらく一人で飲んでいたが(なお、このころ、被告人は、同店の従業員森前マリ子にビールをコップ一杯振舞っている。)、三葉工業の宴会に来ていて奥の宴会場で飲んでいた野田悟が便所から出てきたとき、被告人と目が合い、被告人の隣の席に座ったので、野田にビールを注いでやり、同人と飲み出した。ちょうどそのころ、三葉工業の日高、牧野、仏園が店に入ってきた。被告人と野田は、その後、野田もビールを一本夏子に注文し、互いにビールを注ぎ合ったりしながら話をし、野田は被告人に「お前も早く嫁を貰って身を固めて部落の行事に参加してくれにゃやれん。」などと言ったりしていた。その間、同じく三葉工業の宴会に来ていた有田実蔵が被告人に声を掛けたが、被告人は野田との話に夢中になっていた。

野田が宴会場に戻った後、日高らがボックス席の方に夏子とともに被告人を呼んだので、キープしていたウイスキーを持って被告人は日高らの席に行き、日高らにウイスキーを振舞いながら、自分もウイスキーの水割りを一杯程度飲み、日高と腕相撲をするなどしていた。

その後、被告人は、カウンター席に戻って飲んでいたが、午後一〇時三〇分ころ、三宅熊二、小泉義則ら四名が店に入ってきた。被告人は三宅に「よっ。」と声を掛け、ビール二本を注文して熊二らに振舞い、熊二らのボックス席に座って、小泉と話を始めた。小泉は、被告人は飲むとからんだりしつこくなったりするので適当にあしらっていたが、被告人が腕相撲を挑むような格好をするので相手をしてやろうとしたところ、はっきりしないふざけた態度だったので、「するのかせんのかはっきりせい。」と叱りつけた。熊二らの後に、二組目の明日の会七名が店に来たが、その中で、水野正行は、被告人は飲むと他人の席に押し掛けてきてしつこくからんだりするので、被告人が自分達の席に来なければよいがと思っていた。

小泉らがあまり相手をしなくなったため、被告人は、カウンター席に戻って行った。

そのころ、カウンター席には、三葉工業の宴会客の北村、田丸、五島が来て腰掛けた。被告人は、五島と握力比べをしたり、五島にビールを振舞ったり、田丸にウイスキーを振舞ったりした。五島らは、被告人があまりしつこいので、相手にするのを止めて、この後ラーメンを注文して食べた。そこへ野田悟が、宴会場から出てきたが、五島らがラーメンを食べているのを見て自分も欲しくなり、カウンター席の被告人の右隣に座ってラーメンを注文し、その間五島らはコーラなどを飲んでいた。

被告人は、このころ、カウンター席でうつ伏せになるでもなく、両腕をカウンターの上に置いて、うつむき加減でじっとしていた。

野田が夏子に被告人を連れて帰ろうかと言い、被告人に「帰ろう。」と声を掛け、肩をたたいたが、被告人は返事もしなかった。

その後、野田が、五島らより一足先に店を出た後、被告人がカウンター席の椅子に腰掛けようとして腰掛けそこなったか、椅子から降りようとして降りそこなったかで、椅子ごと仰向けに倒れるということがあった。

被告人は、後頭部を押さえながら痛がっていたが、五島が「大丈夫か。」と声を掛けると、「大丈夫だ。」と言ったので、五島は、被告人を起こしてやった。もっとも、起こしてやったといっても、被告人に手を差し出して起き上がる被告人を手助けしてやった程度である。立ち上がった被告人は、独力で再び椅子に腰掛け、頭を抱え込んでいた。

五島、田丸、北村は、その後店を出て、先に出ていた野田とともに帰宅したが、五島らが店を出る時、被告人はまだ店にいた。

なお、被告人が倒れる前の被告人の状況については、野田が、被告人はカウンターの上に両腕を置いてうつむき加減にしていたと述べるのに対し(同人の7/18付け《検72》、7/19付け《検73》各員面)、北村は、被告人はカウンターに両腕をついてその上に頭をついていたと思うと証言し(一五回公判)、両者に食い違いがあるが、野田は近所に住む被告人を連れて帰ろうと被告人に声を掛け、肩をたたき、さらに隣席でラーメンを食べるなどしているものであって、被告人の様子を北村よりも良く見ていたであろうと思われるうえ、その供述内容も、「午後一一時に店舗を出ると、被告人がまだおり、私が、「おい、帰ろうやあ。」と言って、手で肩をたたいても、何も言わず、私の方も見ずに、ただカウンターでうつむき加減にして考え込むようにしていた。これを見て相当酔っているなと感じた。私がラーメンを食べていた二、三〇分間、被告人は一言もしゃべらず、別にカウンターにうつ伏せになり寝ていたわけでもなく、ただうつむいたまま座っていた。」などというもので、北村証言と比較し、格段に具体性を備えているのであり、これらに照らせば、野田供述の方が信用できるというべきである。

また、被告人が倒れた後再び椅子に座るまでの状況については被告人を起こしてやった五島の供述(7/21付け員面《検219》)が簡単なため分かりづらいものの、この供述と、被告人が自分達の席に来なければよいがと思い被告人の行動に関心を持っていた水野の7/20付け巡面《検119》、さらに、田丸の7/21付け員面《検220》、北村一五回証言等を総合すれば、前記のような状況であったと認定できる。もっとも、北村証言中には、「被告人は、立った後、多分、一人で椅子に座ったのでなく、五島が手を貸して座らせたものと思う。」との部分があるが、この供述自体「多分」という曖昧なものであるうえ、五島の前記7/21付け員面における、被告人を起こしてやった後、被告人がどうしていたかは分からない旨の供述、水野の前記7/20付け巡面における、転倒した被告人は、後頭部を押さえながら、しきりに痛がっていた、隣に座っていた人が被告人に手を差し出して起き上がるのを手助けしていた、その後被告人は再び椅子に腰掛け、頭を抱え込んでいた旨の供述、田丸の前記7/21付け員面における、ひっくり返った被告人に五島が手を差し向けたが一人で立ち上がり、カウンターの椅子に座った旨の供述等からして、被告人が独力で椅子に腰掛けたことは推認に難くないところであるから、北村の右供述は信用することができない。

5  被告人が甲野ドライブインを出た時刻

被告人がいつごろ店を出たかについて、水野正行は、7/20付け巡面《検119》で、被告人は椅子から落ちた後、一旦椅子に腰掛けたが、すぐ立ち上がり、手に何も持たず、明日の会の席にいた夏子に挨拶もせずに店舗玄関から出て行った旨供述している。水野は、当夜酒を控えており、被告人をいやなお客として気を付けていたというのであるし、椅子から落ちたことと関連付けて供述しているので、信用性が高いというべきである。そして、田丸浩二は、その7/21付け員面《検220》で、被告人が椅子から落ちたのは、自分達が帰るすぐ前の出来事と述べ、北村誠も、一五回公判で、野田悟が先に店を出て後、被告人が椅子から落ちるという出来事があったが、その後すぐに自分達は店を出た、野田悟が出てから二、三分後に店を出たと証言し、野田悟も、その7/17付け員面《検71》で、田丸らが店を出てきたのは自分が店を出て二、三分後であったと供述している。

そこで、被告人がいつ店を出たかは、野田悟や五島学らがいつごろ店を出たかにかかることになる。

五島は、自分達が店を出たのは午後一一時三〇分ころと供述し(7/21付け員面《検219》)、北村も、午後一一時三〇分ころか少し前と証言し(一五回公判)、野田も、午後一一時三〇分すぎころ、あるいは、午後一一時三〇分ころと供述している(7/17付け員面、7/18付け員面《検72》)。

五島も北村も酒を飲んでおり、正確な時刻ではないが、いずれも三葉工業の寮に帰った時刻から逆算して供述しており、野田も家に帰ってからの時計の音などと関連付けて供述していることから、午後一一時三〇分ころに、野田が先に店を出て、被告人が椅子から落ち、五島が助けて、五島らが店を出て野田と一緒に帰り、被告人も店を出たという一連の出来事があったと認定してよいと考える。

そうすると、被告人が店を出たのは、概ね午後一一時三〇分ころと認めることができる。

6  被告人の飲酒量

被告人が当夜甲野ドライブインで飲んだ酒の量につき、争いがあるところ、売上メモ紙(符1)には「B1+1+1+1+1+2+1 付出し1」との記載があり、Bはビールのことで、最後の「+1」は緑色のボールペンで書いてあり、他は黒色ボールペンである。

この売上メモ紙について、夏子は、7/20付け員面《検14》で、「「ビール五本、付出し一」となっており、ビールの所の「+2」は、被告人が熊二らに挨拶に出した分である。」旨供述している。

これによると、緑色のボールペンの「+1」が含まれていないが、その理由については何らの説明がないうえ、売上メモ紙を移記したノート(符11)では「B6+2」となっており、金額の計算もビール八本分として計算され、したがって、売掛台帳(符20)も同金額となっていることから、被告人の名で当夜出してもらったビールの本数は合計八本で、そのうち二本は、熊二らが来たとき、熊二らに振舞うために出してもらったものと認定することができる。

そこで、当夜被告人がどのくらいビールを飲んだかについてみるに、被告人は甲野ドライブインに来て飲み出した際、夏子にビールを注いでいること、しばらくして森前マリ子にもビールを一杯注いでいること、その後野田悟にもビールを注いでいること、ただし、野田は被告人によばれてばかりではいけないと思ってビールを一本夏子に出してもらって被告人に注いでいること、熊二ら来店後被告人は熊二らにビール二本を振舞っていること、五島にもビールを注いでいること前述のとおりであるが、仮に夏子や五島に注いだビールの量をいずれもコップ一、二杯程度とし(実際もその程度であったであろう。)、被告人が野田に注いだ分と野田が被告人に注いだ分(ビール一本)とが同程度であったとすると(野田が7/19付け員面《検73》で、当夜(野田は午後五時三〇分ころから午後一一時三〇分ころまで在店していた。)の飲酒量は、宴会場で飲んだ分を含め、ビール二、三本であると供述していることからみて、実際もこれに近かったと思われる。)、被告人が他人にやったビールの量は、野田からよばれた分を差し引いて、三本位(したがって、被告人の飲んだ量は五本位)という計算結果になること、夏子は前記7/20付け員面で、熊二らに振舞ったビール二本を除いた五本のうち、被告人が当夜飲んだビールは、自分がよばれた量等を差し引いて正味三本位と述べているが、同調書には、被告人の名で当夜出したビールを七本としていること、野田から被告人がビールを注いでもらったことについて何ら言及していないことなどの問題点があり、実際の飲酒量と相違している疑いが強いところ、右の三本に、緑色のボールペンで記載してある一本、同調書が全く言及していない野田のとった一本を加算すると、前記の本数と同じ五本となることなどに鑑みると、被告人が当夜甲野ドライブインで飲んだビールの正確な量を確定することはできないけれども、中瓶でおよそ五本程度とみて差し支えないと考える(なお、熊二らのボックスに行ったとき、小泉などからビールを注いでもらった可能性があるが、注いでもらったとしてもせいぜい一、二杯程度のものであろう。)。

次に、被告人の飲んだウイスキーの量についてみると、被告人が、日高らのボックスにいるとき、ウイスキーの水割りを一杯程度飲んだことは明らかである。

被告人が午後一〇時すぎころないし午後一〇時半前ころ日高らのボックスから戻って後野田悟が宴会場から店舗に出て来るまでの間に、被告人がウイスキーを飲んだかどうかであるが、被告人は酒類の中ではビールを好み、ウイスキーはあまり好きでなく、ウイスキーをキープしているのも主として人に注ぐためであること(被告人の二〇回供述)、田丸浩二は、7/21付け員面《検220》で、被告人がカウンターにいた私にウイスキーを注いでくれ被告人の前にはウイスキーのボトルがあったので、被告人はウイスキーを飲んでいたと思う旨述べるが(水野正行の7/20付け巡面《検119》等によれば、田丸にウイスキーを注いだのは、野田悟が宴会場から出てくる少し前ころのこととみられる。)、田丸にウイスキーを注いだ同じころ、被告人は、五島学にはビールを注いでおり、被告人の手元にはビールもあったのであるから(五島学の7/21付け員面《検219》、北村誠一五回証言)、被告人の手元にウイスキーボトルがあったことと被告人がウイスキーを飲んでいたこととは直結しないこと、むしろ、このころビールが被告人の手元にあったことは、被告人がこのころビールを飲んでいたことを示すことなどに照らすと、被告人が日高らのボックスから戻って以降野田悟が店舗に出て来るまでの間に、被告人がビールのほかに、ウイスキーも飲んだことはあまり考えられず、たとえ、この間に、多少ウイスキーを口にしたとしても、右に述べたことや日高らのボックスに相当長い間いたにもかかわらずその間に飲んだウイスキーは水割り一杯程度であったことに鑑みれば、その量としては水割り一杯程度にも満たない少量と見積もれば足りると考えられる。

そうすると、被告人の当夜の飲酒量は、下酒屋で飲んだ分も合わせて、日本酒約二〇〇ミリリットル、ビール大瓶二本(一二六六ミリリットル)ビール中瓶五本程度(二五〇〇ミリリットル程度)ないしせいぜい五本強程度、しそ焼酎湯飲み茶碗三分の一、ウイスキー水割り一杯ないしせいぜい一杯強程度ということになる。

7  被告人の酔いの状況

被告人が午後一〇時三〇分以降相当(野田悟の7/18付け《検72》、7/19付け《検73》各員面、小泉義則の7/22付け員面《検287》)ないしかなり(水野正行の7/20付け巡面《検119》)酔った状態にあったことは明らかである。

このころの酩酊状況を目撃者の供述により具体的にみると、被告人は酔ってくると誰彼構わず人の飲んでいる席に割り込んでビールを注いだりウイスキーを注いだりする性癖があるが(水野の7/20付け巡面等)、この日も午後一〇時三〇分以降被告人はビール、ウイスキーを人に注いで回る行動に出ている。このときの足取りであるが、千鳥足であったという者もいるが(北村誠一五回証言)、転倒したこともなく、また、身体が揺れてビール等が注げないという状況があったとも窺えず、さらに、後記のように、店を出るときにも転倒しそうな状況はなかったのであるから、多少足元がふらつく程度であったものとみられる。

被告人は、当時、かなりしつこくなり、小泉も五島も被告人を適当にあしらっていた。被告人の話し振りについて、北村は、どもったような感じと述べ(一五回証言)、また、五島は、訳の分からない話をしていたと述べており(7/21付け員面《検219》)、いわゆるろれつのよく回らない状態になっていたと思われる。

被告人は、その後、カウンターの椅子に座り、相当時間、両腕をカウンターに置いてうつむいていたが、うつ伏せで寝込んでいたものではなく、野田悟には考え込んでいるように見えた。当時、多少眠気があったのかもしれぬが、結局、うつ伏せになって寝込むようなこともなく、また、その後の椅子からの転倒はうとうとしたことによるものではないのであるから、被告人に当時強い傾眠傾向があったとは思えず、いずれにしてもいわゆる酔い潰れた状態ではなかった。

被告人は、椅子から転倒しているが、椅子に座っている状態で自然に(うとうとして)転倒したというわけではなく、降りそこなったか座りそこなったかして転倒したものである。これは椅子が高いことから(椅子に腰掛けると、足は床につかない状態になる。)、酔いの影響でバランスを失したものであろう(田丸浩二の7/21付け員面《検220》)。

被告人は、倒れた後五島の手助けで起き上がっているが、その後独力で椅子に腰掛けている。五島が手助けしたといっても、起き上がる被告人に手を差し向けた程度であり、その後独力で椅子に腰掛けていることや帰る際に椅子から転落もせず降りていることも考えれば、被告人が一人では起き上がれないような状態であったとは思えない。なお、五島が声を掛けるまで、被告人は後頭部を押さえてしきりに痛がっていたのであって、起き上がろうとして起きあがれずにいたというわけではない。

被告人は、その後店を出ているが、その際の足取りについて、水野は、前記7/20付け巡面で、ふらふら千鳥足になることもなく、飲んでいる割にはしっかりした足取りで出て行った旨述べている。椅子から転倒していることやビール等を注ぎ回っているとき千鳥足であったと言う者もいることからして、多少の足のふらつきはあったではあろうが、転倒が危ぶまれるような状況ではなかったものと認められる。

ところで、弁護人は、被告人の当時の酔いの状況からして、被告人は本件犯行を犯しえなかったと主張し、鑑定人鳥取大学医学部教授狭間秀文作成の鑑定書《職14》及び同人の三五回、三六回証言を援用している。

右狭間鑑定の鑑定事項とこれに対する鑑定意見については、後に触れることとするが、同鑑定人は、右鑑定書等において「昭和五九年六月六日午後二時四〇分から午後八時一〇分の間、飲酒実験を実施し、被告人に、日本酒一八〇ミリリットル、ビール大瓶五本及び中瓶一本(合計三六六五ミリリットル)、ウイスキー少量を飲酒させた。飲酒開始後四時間一五分時の血中アルコール濃度は一グラム当たり二・六四ミリグラムに達した。一般に酩酊とアルコール血中濃度の関係はかなり個人差があるが、通常一グラム当たり二・〇ないし二・五ミリグラム以上となると、意識水準の低下、運動機能障害(運動失調)、傾眠傾向が出現し、泥酔状態とされる。泥酔の臨床特徴は、構語障害、千鳥足から足腰が立たなくなるまで種々の程度の運動機能障害と意識水準の低下、記憶障害等の精神機能障害が平行して進行することである。飲酒開始より四時間以降は泥酔状態とみてよい。運動機能障害の点では、重心計で著しい重心の動揺を示し、運動失調がみられた。起立時に何回もよろけ、辛うじて歩行は可能であったが、千鳥足であり、前屈して突進するような格好となり、壁にぶつかったりしてトイレに行くには時に誘導介助が必要であった。また、このような状態時には五キログラム足らずの椅子を持つことも不可能であった。階段を降りることは全く不能であり、転落の危険があるため指示を中止せざるをえなかった。階段を昇るよう指示すると、四つんばいの格好ではって昇った。被告人が身体の動揺が著しいにもかかわらず千鳥足ながら辛うじて歩行できたのは、長年の経験から身体動揺中に歩行することを学習してきた結果で、行動耐性と呼ばれるものである。このような行動耐性は、手ぶらで平坦な道を歩行することに関して形成されたものであり、階段の昇降、両手あるいは片手に物を持っての歩行など余分の要因が付加された条件では行動は不能となる。記憶障害の点では、飲酒開始後三時間を過ぎたころより記憶は曖昧になり、追想障害が出現する。四時間一五分を過ぎると島状の記憶、それも極めて断片的な記憶を残すのみとなる。被告人は、事件当夜の午後一〇時半から午後一一時位の間、ビールを注いで回ったりしているが、この時の歩き方は千鳥足で、また構語障害も認められた。午後一一時から午後一一時半位の間はカウンターに突っ伏した格好でじっとしており、午後一一時半には椅子もろとも転倒して一人で起きられない状態であった。店を出る際には壁にぶつかったりするような失調があったものと推定される。事件当夜の午後一一時以降は少なくとも被告人は泥酔状態であったと考えられる。事件当夜は、傾眠傾向が強く、椅子から転倒した状況からすると、運動失調症状も著しく、飲酒試験時に比較してもう少し深い酩酊状態であったと推定される。当時の運動失調症状からして、被告人が体重一七・五キログラムの子供を抱いて単純でない地形の中で本件犯行を遂行することは極めて困難であると考えざるをえない。」などと述べている。

しかし、当夜の酩酊状況は、前認定のとおりであって、被告人はカウンターに突っ伏していたものでも、傾眠傾向が強かったものでも、椅子から転倒した際一人で起き上がれない状態であったものでも、前屈して突進するような格好で歩いていたのでも、周囲の物にぶつかったりしながら店を出て行ったものでもなかったのである。かえって、足元は多少ふらつきはあったにしても、ともかくもビールなどを持って転倒することもなく歩き、これをコップに注ぎえたのであり、一度椅子から転倒したものの、その後は独力でこれに腰掛けているのであり、帰る際には今度は転倒することなく椅子から降りているのであり、さらに、店からは誰の介助も受けずに一人で出て行っているのである。

これらからすると、当夜の酩酊の程度が飲酒試験時より深めであったとか、運動失調症状が強かったとはいえず、むしろ、当夜の酩酊の程度は、狭間鑑定人の分類で、泥酔の弱いものになるのか、泥酔とその下との境界域の酩酊ということになるのかは分からぬが、飲酒試験時より浅めで、運動失調症状は弱めであったと認められる(飲酒試験時の飲酒量は、前記の事件当夜の飲酒量と比較すると、同程度ないしやや少なめということになるが、にもかかわらず、事件当夜よりは深めの酩酊状況、強めの運動失調症状が現れたのは、約三年間の断酒によるアルコール耐性の低下その他が関係していると思われる。)。

そうすると、酩酊の程度、運動失調の程度は、飲酒試験時より本件事件当夜の方が深めないし強めとの理解に立ち、飲酒試験時椅子を持ちあげることが不可能であったとか階段を立って昇ることができなかったとか前屈して突進するような格好で時に介助を受けながら辛うじて歩行したなどの運動失調症状が現れたことなどを根拠にして、被告人が本件犯行を遂行することが著しく困難であったとする狭間鑑定人の前記見解は採用することができないといわなければならない。

そして、前認定の酩酊状況からすれば、被告人が当夜かなりないし相当酔っていたことは間違いなく、椅子から転倒したり、多少足元がふらついたりということもあったのではあるから、被害者を抱えるなどして勾配のかなりあるところを上ったりする必要のある本件犯行を犯すことが被告人に疑いもなく可能であったとまではいえないけれども、これが無理だったともいいにくいと考えられる。

なお、被告人の酩酊状況の如何は、運動機能障害の如何と関係するだけでなく、被告人の事件当夜の記憶状況の如何と関わる。狭間鑑定人も、もともとは、後者を鑑定事項として鑑定を行ったものである。すなわち、裁判所は、弁護人の申請に基づき、狭間鑑定人に対し、「被告人の捜査、公判及び鑑定の各時点における本件事件当夜(昭和五六年七月一六日午後六時ころから翌一七日午前二時ころまでの間)の記憶の有無及び程度」について鑑定を命じ、同鑑定人は、前記のように飲酒試験を実施し、翌日、前日の飲酒試験時の出来事等につき問診し、記録も検討のうえ、「事件当夜被告人は酩酊状態にあり、その程度は午後一一時以降は泥酔状態であったと推測され、当時の記憶に関しては急性アルコール中毒による記銘力の障害とともに追想障害を来しており、ほとんど記憶欠損の状態にある。午後一〇時半すぎに三宅熊二と出会ったことはかすかな記憶として想起できるが、午後一一時ころから翌一七日午前二時ころまでの間の記憶は想起不能である。捜査、公判、鑑定の各時点において、この追想障害は変化しないと推測される。」旨を結論とする鑑定書を提出したものである。

ところで、この狭間鑑定の事件当夜の記憶に関する意見に関連して若干の敷衍をしておくと、本件鑑定事項は極めて特異な鑑定事項であってこのような鑑定事項で鑑定を行うこと自体果たして妥当なのかどうかという問題もあるが、それはさておき、当裁判所は、次の理由により、この意見を考慮することなく後記の被告人の自白の信用性の判断を行っている。

すなわち、飲酒試験時における記憶障害の状況は、飲酒開始後三時間を過ぎたころより記憶は曖昧になり、四時間一五分を過ぎると極めて断片的な島状記憶を残すのみとなったというのであり、完全健忘ではなかったのである。そうすると、狭間鑑定人の「午後一一時ころから翌一七日午前二時ころまでの間の記憶は想起不能である。」との意見は、右飲酒試験の結果からは、直ちに導くことはできない。事件当夜の記憶状況がいかなるものであったかを判断するためには、結局、被告人の自白の信用性の検討が不可欠であって、事実、狭間鑑定人も当時の記憶に基づきこの点の検討をして右結論を導いているのである。もちろん、狭間鑑定人は、記録のみを検討して右意見を出したものでなく、飲酒試験も実施し、その結果も総合して、右意見を出したものであり、これが専門性を含む意見であることは間違いない。しかし、右意見が自白の信用性についての狭間鑑定人の見方に大きく依拠していることも間違いないところであって、そうであれば、自白の検討を経ぬ前から、右意見を正当なものとして重視するのは相当でないといわなければならない。のみならず、事件当夜の酩酊の程度は飲酒試験時より浅めであったのに、狭間鑑定人は逆に考えていたこと前記のとおりであるが、もとより、事件当夜の酩酊の程度が飲酒試験時より浅めであったからといって、このことから、自白内容も検討せずに、甲野ドライブインを出るころ以降のことを覚えていないということはありえないはずであるとかと決め付けることはできないが、しかし、このような前提の相違は、少なくとも、狭間鑑定人の前記意見を自白の信用性検討において使用することの相当性に疑問を抱かせるといわなければならない。そこで、後記のとおり、自白の信用性判断に当たっては、この狭間鑑定人の意見を判断資料として用いることをしなかったのである。

8  被告人の発見

前記のとおり、一七日午前一時一五分ころ、一郎と夏子は、被害者のいないことに気付き、家の中、外を捜したが、見当たらず、ニューサカタの三宅に電話しても来ていないとのことだったので、午前一時二〇分ころ三郎のところに行き、その後(夏子は渡方に立ち寄り)自宅に戻った。

この後、被告人を旧農協ガソリンスタンドで発見することになるが、発見に至る経過、発見した時刻について関係者の供述に若干の相違があるので、検討する。

夏子は、7/20付け員面(一三枚綴りのもの)《検14》では、身内の者や渡達と家の中、家の回り等を捜していた午前二時前ころ被告人を発見した旨供述し、7/24付け検面《検18》では、義父三郎のところから帰ってきて、甲野ドライブインの前で、三郎、政子、渡、ニューサカタの三宅と相談し、一郎、渡と体育館の裏手の畦道を捜そうと行きかけたところ、被告人を発見した、その時刻は、被害者がいなくなったのに気付いたのが午前一時ころで、甲野ドライブインに戻ってまもなくだったので、午前一時半ころと思う旨供述し、7/31付け検面《検19》では、被害者がいなくなったのに気付いたのは午前一時を少し回っていたかもしれないので、被告人を発見したのは午前二時に近い時間だったと思う旨、7/24付け検面における供述を訂正する供述をしている。

一郎は、7/20付け員面《検10》で、父のところから帰ったとき、三宅と小笠原夫婦が来ていた、再び外を捜し始めたが、店の前の道路で父と夏子と三人でいるとき、被告人を発見した、この時刻は午前一時三〇分ころだったと思う旨供述している。

右供述中、一郎らがガソリンスタンドで被告人を発見した時に、小笠原夫婦が来ていたとする点については、小笠原実が7/20付け員面《検120》で、午前二時一〇分ころ政子から連絡が来た、着替えて駆け付けたとき井原駐在所の高山(高山直樹巡査)らがいた旨連絡のあった時刻の点を含め具体的な供述をしていること、そして、高山が甲野ドライブインに急行したのが午前二時二〇分ころであることなどからして、措信しがたい。着替え時間、小笠原方と甲野ドライブインとの距離等も考慮すると、小笠原実は、高山と前後して午前二時二〇分ころ甲野ドライブインに着いたと見られ、一郎は、小笠原が捜索に来てくれた時期を混乱して右のように述べているものと考えられる。

三郎は、7/20付け員面《検26》で、午前一時二〇分ころ一郎が連絡に来た、午前一時三〇分ころから家族の者や親戚の者と一緒に捜した、午前二時ころであったと思うが、被告人を私と夏子らとで発見した旨供述している。

渡は、7/19付け巡面《検23》で、午前一時三〇分ころ夏子が起こしに来た、午前二時ころだと思うが、一郎、夏子、私で被告人を発見した旨述べている。

そして、夏子らに発見された被告人は、その後、二〇〇メートル弱歩いて下酒屋に行き、その付近から直線距離で約五〇〇メートル位離れた自宅にバイクで帰ったのであるが、被告人の母乙川秋子は、7/31付け検面《検94》で、被告人がバイクで帰宅したとき、時計を見たら午前二時一〇分ころだったと述べている。

このようにみてくると、一郎、夏子が三郎方から戻り、三宅、渡、三郎、政子が来てくれて、少し被害者を捜した後、一郎、夏子、三郎、渡らが被告人を発見したとみられ、その時刻は、一郎の言う午前一時三〇分ころよりは少し遅く、午前二時前ころないし午前二時ころであったと認めることができる(以下午前二時前ころとして論述を進める。)。

発見時の被告人の様子であるが、概ね次のとおりと認められる。

一郎、夏子、三郎、渡らが、水銀灯1の近くの旧国道にいたとき、旧農協ガソリンスタンドからぶつぶつと人の話声が聞こえてきた。一郎が懐中電灯でその方向を照らすと誰かが横になっており(一郎五五回証言、渡の7/19付け巡面《検23》)、夏子らがガソリンスタンド内に入っていくと、被告人がガソリンスタンドの北東奥に頭を北方に向けて仰向けで横になっていた。

被告人は、「しゃんとすりゃいいんだろう、そんなもんだろう。」などと独語していた。被告人は、両手を頭の下に組み、作業衣上衣は左右ともひじのあたりまで折っていた。

夏子が「春ちゃんがおらんなったけど見んかったかね。」と聞くと、被告人は「うそだろう。」と答え、夏子が「ほんとだわ。」と言うと、被告人は「ほんまか、わしゃ知らん。」と答えた。夏子が被告人の背中の下に手を入れ、被告人の上半身を起こしたところ、背中の下に青色ズック靴を敷いていた。

被告人は、その後、体育館の裏手(南側)の小道を通り、下酒屋付近に止めてあったバイクに乗って帰宅した。

ところで、被告人が寝ていた(眠っていた)ところを夏子に起こされたかどうかであるが、夏子は、7/24付け検面で、独語もはっきりした口調であり、目は醒めているように思えた旨供述しているが、あくまで感じを述べたものにすぎないうえ、夏子は、7/20付け員面(一三枚綴りのもの)では、寝言のような感じであったと述べていたのであり、また、一郎は、7/20付け員面で、被告人は何やら寝言を言っていた、店でカウンターから落ちてそのまま寝たこともあり、ああ、いつものことだなと思った旨述べており、渡も、7/19付け巡面で、被告人は酔い潰れて寝ているくらいにしか思わなかったと述べており、三郎も、7/20付け員面で、何か寝言のようなことを言っていたと述べていること、被告人は夏には飲んでそのまま道端などに寝てしまう性癖のある者であり、また、大きな声で寝言を言う性癖のある者であること、前記独語は、そのままとればまさに寝言にほかならないことなどに鑑みると、被告人は寝ていた可能性が高いというべきである。

9  被告人の帰宅

被告人の母秋子は、納戸(母屋の南西の部屋)で横になって被告人の帰宅を待っていたところ、被告人は、一七日午前二時一〇分ころ帰宅し、母屋の入り口から入り、「戻ったぜ。」と秋子に声を掛けた。

秋子は、炊事場に出て、表の八畳間(母屋の北東の部屋)にいる被告人に「帰りんさったか、ご苦労だったなあ。ご飯食べんさるか。」などと言うと、被告人は「いらんけんのう。」と答えた。秋子は被告人がすぐ寝るかどうか心配でしばらく炊事場にいると、被告人は秋子に甲野ドライブインに電話を掛けるように言ったので、電話帳を調べて、甲野ドライブインに電話した。電話が掛かったころ、被告人は秋子から受話器を受け取り、電話に出た夏子に「バイクでちゃあんと戻ったで。子供は昨日から見とらんで。見付かったか。」などと言い、夏子が「まだおらん。」と返事をすると、「やれんのお。」と心配そうに言い、夏子が当夜三宅熊二が店に来ていたことから三宅方に電話してみようと、被告人に番号を聞いたところ、被告人は「それならわしが掛けて折り返し電話する。」と言って電話を切った。

それからしばらく経った午前三時ころ、被告人は、秋子に三宅に電話するよう言い、秋子が三宅方に電話を掛けると、受話器を取って、電話に出た熊二の母シメに熊二が帰っているかどうか尋ねたが、シメが「寝とるでなあ。」と答えると、「それならいいわ。」と言って、電話を切った。

被告人は、この後、秋子にもう一度三宅に電話するように言ったが、秋子は誤って甲野ドライブインに掛けてしまい、詫びて電話を切った。

その後、秋子は、被告人が何も言わず寝た様子だったので、さらに電話を掛けることは止めて、自分も寝た。

10  一七日朝の被告人の状況

井原駐在所の高山巡査は、一七日午前二時二〇分少し前ころ、甲野方からの子供が行方不明になったとの通報を受け、本署に連絡するとともに甲野ドライブインに急行した。

高山は、しばらく家の内外を捜したが見付からないので、再び本署に連絡し、右連絡により、当夜の当直の八幡垣満巡査が米沢淳巡査とともに午前三時一五分ころ甲野ドライブインに急行した。

そして、八幡垣は、高山から捜索状況を聞くとともに、自らも家の中などを捜索したが見付からないので、一郎、夏子、渡らからも事情を聞いた。その際、夏子らは、被害者を捜していたとき被告人が旧農協ガソリンスタンドで酔って寝ていた旨、寝室南窓前に立て掛けてあった看板が倒れており、その下に自分達のものでない足跡があった旨を話した。

そこで、八幡垣、高山、米沢は、一郎や夏子の案内で、看板下の足跡を懐中電灯で確認したが、指示されて八幡垣が見た足跡は波線で横線紋様の足跡で、長靴より運動靴様の足跡であった。なお、八幡垣は、看板下は指示されたところくらいしか見ておらず、かつ、格別注意深く見たわけではなかった。

この看板下の足跡を見た時刻は、午前四時前ころと認められる。

その後、八幡垣らは、三葉工業の寮に事情聴取に行ったりして後、被告人がガソリンスタンドにいたということなので、何か事情を知っていないか、不審な者でも見掛けていないかと考え、事情聴取のため、被告人方に行くことにした。

八幡垣と高山は、午前五時ころ(この時刻については後述する。)、被告人方に行った。

被告人は作業衣上下と靴下を脱ぎ、秋子が出しておいたステテコをはいて、寝ていたところ、八幡垣と高山が来たので、ステテコ姿のまま出た。

土間で、八幡垣らは、被告人に前夜のことを尋ねたが、被告人は、「甲野でビール三本位飲んだところまでは覚えているが、それ以後のことは全く覚えていない。したがって、いつ店を出たか、どこで寝転がっていたか、いつごろ帰って何をしたかは全く分からない。」旨答えた。

八幡垣は、玄関土間に運動靴が一足あったので、手に取り靴底を見たが、摩滅しており、波線の横線紋様で看板下の足跡に似ているとの印象を受けた。被告人に「昨日履いていたのはこれか。」と尋ねると、被告人は「夕べ履いていた運動靴です。」と答えた。

八幡垣らは、さらに昨夜の行動を質問し、「みんな捜索に出ている。知っていることがあれば協力してくれ。」と言ったが、被告人は同じことを繰り返すだけだったので、五分ないし一〇分程度で事情聴取を打ち切った。

八幡垣は、被告人はガソリンスタンドで夏子に起こされているのに、それも覚えていないというのはおかしいと思った。

また、八幡垣は、被告人のはいていたステテコの右足部分が破れているのに気付いたが、被告人には質問しなかった。

被告人は、八幡垣らが帰ってから、秋子に「わしゃ、やっちゃおらんからな。」と言ったり、また、破れているステテコを脱いで引き裂き、「おやじの古手ばかりはかしてからに。」と怒鳴ったりした。

被告人は、この後着替えをした。

被告人は、下着のうちシャツは半袖白シャツ(符8)からランニングシャツに着替えた。

被告人が一七日の朝、パンツをはき替えたかにつき、検討する。

巡園山喬久作成の7/17付け作業服等の領置状況報告書《検51》によると、「八幡垣が被告人を川本署に任意同行して調べたところ、被告人は昨夜着ていた作業服や下着等については今朝全部着替えたように思う、着替えた作業服等は自宅にある旨述べたので、午後三時一〇分ころ、園山が被告人方に行って、秋子から事情聴取したところ、秋子は昨夜着ていた作業服、下着類は今朝着替えをして出て行ったので、何と何があったかはっきり覚えていないが、いつものとおり洗濯したと述べた。そこで、物干場に乾燥中の、被告人が昨夜着用し、今朝洗濯したと思料される作業服等を秋子から任意提出を受けてこれを領置した。」となっているところ、右領置した洗濯物の中には、パンツ(符9)があり、かつ、前日着用した作業衣上衣(符7)、作業衣ズボン(符6)、半袖白シャツ(符8)、白色靴下があったのであるから、一見すると、被告人が一七日朝パンツを着替えたとみることもできる。

しかし、右領置した洗濯物の中には、ステテコ(符23)もあるところ、被告人は一六日昼の仕事の時にはステテコをはいていなかったと認められ、かつ、一七日午前二時一〇分ころ帰宅して寝る時にはいたステテコは破ってしまっているのであるから、右ステテコにはペンキの跡があり被告人のものと認められるものの、被告人がこれをいつはいたものか判然としない。

したがって右領置したパンツも必ずしも一六日着用のものとは言い切れない要素を持つうえに、被告人は自供途中の一八日午前一時〇五分ころに当時はいていたパンツ(符16)を任意提出しているが、その際一七日朝はパンツ以外は着替えたと述べ、その後公判廷でもこれを維持しているのであり、これらに照らすと、シャツを着替えるのなら通常パンツも一緒に着替えるのが常識的ないし一般的な生活習慣であることを考慮に入れても、いまだ被告人が一七日朝パンツを着替えたとは認めえず、結局、被告人は右パンツをその前から着用していたものとみるのほかないのである。

なお、事件から一年後の昭和五七年七月に被告人方(既に空き家になっていた。)の納屋の軒下に大量に立て掛けてある屋根葺き用の真茅の中からパンツ(符19)が発見され、このパンツから精子の頭部らしきものが検出され、その血液型は被告人と同じO型と鑑定されている。

しかし、右パンツはグンゼ製であるところ、秋子が提出したパンツも被告人が提出したパンツもキャロン製であって、銘柄が異なるのであり、被告人が公判で言うようにパンツは一枚ずつ買っていたことを考慮しても、被告人が当時他にどのようなパンツを所持していたのかについての捜査、立証もなされていない以上、右発見されたパンツが被告人の物かどうかすら確定されていないというほかない。

したがって、右パンツが発見された事実があるからといって、前記の判断を左右することはできない。

被告人は、着替えた後、バイクの掃除をした。

そして被告人は、午前五時三〇分ころ、仕事を休むことにし、秋子に「三宅に電話しといて。」と言って、黒色Tシャツ、茶色ズボン、素足につっかけという姿で家を出、歩いて甲野ドライブインの方に向かった。

ここで、一七日朝八幡垣らが被告人方に来た時刻、被告人が出掛けた時刻に証拠上ややはっきりしない点があるので、一言する。

員八幡垣満作成の8/10付け被疑者乙川一夫が着用していた破れたステテコの追及状況報告書《検7》には、一七日朝被告人方に行ったのは午前五時三〇分ころと記載されている。

ところで、被告人は、五分ないし一〇分程八幡垣らから家で事情聴取を受け、着替えやバイクの掃除をしてから家を出、甲野ドライブインの方に向かい、途中、前田商店に寄り、ジュース類を飲み、前田工と話をし、その後甲野ドライブインに行き、滝元昭夫と話をし、しばらく店舗内にいて、その後有田と柴田と三人で捜索に出、満行寺の方へ上がり、境内、釣鐘の下、井原駐在所の前、野田木工の回り、橋の下の方などを捜索し、その後国鉄バス井原駅の停留所付近で三人でジュースを飲んでいると八幡垣らが来て、井原駐在所で事情聴取を受けたことが認められる。

そこで、一七日朝被告人を見掛けた関係者の供述をみるに、有田は、午前五時すぎに被告人が甲野ドライブインに来ていた、午前六時三〇分ころから柴田、被告人と三人で捜索に出たと供述し(有田実蔵の7/25付け員面《検81》)、前田工は、前田商店の前で話をしたのは午前五時三〇分ころから午前六時ころの間であったと供述し(員作成の7/24付け「乙川一夫の七月一七日早朝の動向について」と題する書面《検82》)、滝元は、午前五時三〇分ころ甲野ドライブインの前で被告人と話をしたと供述し(滝元昭夫の7/21付け員面《検80》)、甲野ドライブインの従業員である日高幸子は、午前五時三〇分ころから午前六時ころの間に被告人が店に来てカウンターに座っていたと供述し(日高幸子の7/19付け員面《検28》)、岡部茂は、被告人が午前五時三〇分ころ被告人が甲野ドライブインにいたと供述し(岡部茂の7/18付け員面《検3》)、八幡垣作成の前記報告書には、被告人を井原駐在所に任意同行したのは午前七時ころであると記載されている。

これらを総合して考えると、被告人方に八幡垣らが来たのは前記報告書の記載よりやや早い午前五時ころとみるのが相当であり、被告人は午前五時三〇分ころ自宅を出、午前六時ころまでの間に前田との話などがあり、その後甲野ドライブインに行き滝元との話があり、さらに午前六時三〇分ころ有田らと三人で捜索に出、午前七時前ころにバス停留所で八幡垣から同行を求められたとみられる。

被告人が自宅を出た後の言動であるが、被告人は、前田商店前の自動販売機で缶ジュース類を買って飲んだが、その際、前田工に「警察が犯人扱いしやがって。きゃあくそが悪いので今日は仕事を休む。」などと言っていた。また、甲野ドライブインの前で、滝元から「お前が春子ちゃんを連れ出しいたずらしたんと違うか。」と言われたのに対し、被告人は「あがぁなこまい子をいじったりしゃあせんわな。するだったら大きな子をかまわあな。」などと言っていた。

11  被告人に対する井原駐在所での事情聴取

八幡垣は、午前六時三〇分ころ甲野ドライブインに来た川本署の遠藤謙三刑事課長に被告人方での事情聴取につき報告したところ、遠藤は、八幡垣に、さらに被告人から事情聴取するよう指示した。そこで、八幡垣は、午前七時前ころ被告人方に向かったが、その途中バス停留所付近で捜索に当たっている被告人に出会ったので、被告人に井原駐在所までの同行を求めた。被告人は協力的な態度でこれに応じた。

八幡垣は、駐在所で、被告人に、参考のために昨夜履いていた運動靴をもう一度見せてほしい旨言うと、被告人は「いいですよ。家にありますので見て下さい。」と言うので、八幡垣は、、高山に被告人方に取りに行くよう指示した。

高山は、被告人方に一人で行き、秋子が被告人が昨夜履いていたものということで出した運動靴一足を持ち帰った。そして、午前七時すぎころ、これを被告人に見せたところ、「夕べ履いていたのはこれではありません。裏がちびた古い運動靴です。」と申し立てた。右運動靴は、靴裏はあまり摩滅していない、わりと新しい二六・〇EEと書かれたものであり、八幡垣らが午前五時ころ見た運動靴とは違っていた。

そこで、八幡垣は、被告人に家に行って昨夜履いていた運動靴を見せてほしいと言い、被告人がこれに応じたので、八幡垣、被告人、高山の三人で、被告人方に向かった。

被告人方に着き、被告人が母屋と納屋との間に置いてあった運動靴(符5)を見付け、八幡垣に見せた。これは、靴裏が摩滅しており、午前五時ころ上がり縁の下辺りの土間で見た運動靴であり、二五・五EEと書かれていた。

被告人が前夜履いていた運動靴の位置は変わっていたが、八幡垣は、運動靴自体の状態等が午前五時ころ見たときと格別変わったという印象は持たなかった。

三人は駐在所に戻り、被告人は、午前七時一五分ころ、駐在所で、これら二足の運動靴を任意提出した。

八幡垣は、高山に、運動靴二足を持って遠藤課長のところへ行き、看板下の足跡と比べてもらうよう指示した。

しばらくして、高山は、八幡垣に似ていると報告した。

八幡垣は、駐在所で、午前九時ころまで被告人から事情聴取した。

被告人は、昨夜のことにつき、はじめは被告人方で言ったと同じような返答をしていたが、旧農協ガソリンスタンドで夏子に起こされていないかと聞かれて、ガソリンスタンドで起こされたこと、バイクで帰ったことを、ばつが悪そうに答えた。

八幡垣は、被告人が昨夜のことは覚えていないと言っていたのは、飲酒運転ということがあるため隠していたという印象を受けた。

八幡垣は、被告人の運動靴に似たような足跡がある、家の回りを歩いていないかなどと質問したが、被告人は分からんという返答であった。

八幡垣は、簡単な経歴、甲野ドライブインに行くまでの経過、飲酒量なども聞いた。

被告人は、甲野ドライブインに行ってからのことについては、ビールを三本位飲んだところまでは覚えているが、その後のことは分からないとの返答を繰り返していた。

八幡垣は、午前九時ころ、「家に帰って休んでくれ。」と言って被告人を家に帰した。

帰宅後、被告人は、朝食を食べずにごろごろしていた。

12  川本署への任意同行から逮捕まで

被害者は、一七日午前九時五五分ころ遺体で発見されたが、午前一〇時ころ、被告人は、自宅で、被害者が発見された旨の放送を聞いた。

被告人は、放送を聞いた後、秋子に「わしゃ、やっちゃおらんからな。」と言って家を出た。

一方、八幡垣は、そのころ捜索に当たっていたが、山田刑事が八幡垣のところに来て、被害者が発見された旨伝え、手振りで絞殺である旨示し、被告人を川本署で事情聴取するようにとの遠藤課長の伝言を伝えた。

そこで、八幡垣は、山田刑事運転の車に乗って、被告人を捜したところ、午前一〇時半ころ、被告人が駐在所前から甲野ドライブインの方に向かって歩いているのを発見したので、被告人に川本署への同行を求めた。被告人は素直に応じ、そのまま車に乗って、川本署へ行った。

川本署での取調べは、午前一一時ころから八幡垣により一階の取調室で行われた。

八幡垣の取調は、午後五時すぎに小笠原と交替するまで続けられたが、被告人は、出された昼の弁当もほとんど食べなかった。

上司の指示で鑑識係の園山喬久が、取調室で、午後一時ころ、被告人の同意を得て、被告人の左前腕・手平部(六枚)、右前腕・手平部(五枚)、左足裏(一枚)、右足裏(一枚)から、ゼラチン紙による微物採取をし(巡作成の7/17付け微物資料採取報告書《検62》)、午後一時四〇分ころ、被告人の陰部をガーゼで拭き取らせ、そのガーゼ片のほか、被告人の爪九個(右ぼ指二個、右示指二個、右中指二個、右環指一個、左小指二個)、唾液、頭髪、陰毛の任意提出を受け(巡作成の7/17付け「手指爪等の領置状況等について」と題する書面《検59》)、さらに、被告人が昨日着用していた作業服、下着は全部着替えたように思う、着替えた作業服等は自宅にある旨述べたので、午後三時一〇分ころ、前記のとおり、被告人方で秋子から物干場で乾燥中の作業衣等の洗濯物の任意提出を受けた。

八幡垣は、被告人に対し、詳しい経歴、一六日の昼の仕事の内容などを聞くとともに、甲野ドライブインでの途中からのことを聞いたが、被告人は、「分からん。」と繰り返していた。八幡垣は、遺族の心情などにも触れて、思い出して話すよう求めたが、午後三時ころからは、被告人は黙り込んだりするような状態であった。

なお、被告人は、二、三日前、被害者に蛍を持って行った事があることは述べていた。

八幡垣は、川本署に着いた後昼休みに、捜査本部に、被告人についての情報を連絡してもらうよう依頼していたが、その回答が来ないので、午後四時三〇分ころ、二階の刑事課に行ってみたが誰もいなかったので、一階の行政室に行き、小笠原次長に聞いたところ、連絡がないとのことだったので、再び一階の取調室に戻った。

午後五時すぎ、被告人の取調べは小笠原次長に替わった(この経緯については、後述する。)。

午後六時ころ、夕食の弁当が出たが、被告人はほとんど食べなかった。

午後六時四五分ころ、被告人は小笠原次長に対し、犯行関与を認める供述を始め、午後七時には、ポリグラフの依頼がなされた。

午後一〇時ころポリグラフの検査官の稲垣徹が川本署に到着し、質問事項の確定や、検査の準備をして、午後一一時から翌一八日午前〇時三〇分までポリグラフ検査を実施した。検査の結果は容疑があるとのことであった。

その後、小笠原は、取調べを再開し、午前一時三〇分ころないし四〇分ころまでには、被害者の殺害を認める内容の、7/18付け調書(一〇枚綴りのもの)《検148》を取り、その間である午前一時〇五分、八幡垣が前記のとおり被告人から当時はいていたパンツ(符16)の任意提出を受けた。

そして、一八日午前二時、被告人は殺人容疑で緊急逮捕され、午前二時〇二分、小笠原が被告人の弁解録取書《検194》を取った。

13  運動靴と足跡痕について

一七日午前七時一五分ころ、被告人から運動靴の二足の任意提出を受けたこと、昼の検証で石膏法により足跡一三個の採取がなされたこと、夜の検証でも石膏法で二〇個の足跡が採取されたこと前記のとおりであるが、これらの三三個の石膏足跡の中に右二足の運動靴によって印象されたものがあるかどうかの鑑定嘱託が七月一八日付けでなされた(員作成の川鑑第二八号7/18付け鑑定嘱託書《検42》)。ただし、石膏足跡三三個と運動靴二足は、一七日に特使をもって送付されている。

右嘱託に対する鑑定結果回答書は、七月二五日付けで作成されている(島根県警察本部刑事部鑑識課・員松浦栄二作成の7/25付け鑑定結果回答書《検43》)。ただし、電話による回答は七月一八日になされている。

ここで、この鑑定結果などから、若干の考察をしておくこととする。

右鑑定結果回答書によると、鑑定の結果は、「番号35の石膏足跡は二五・五EEの運動靴の左外底に類似した足跡であり、番号36の石膏足跡は二五・五EEの運動靴の左によって印象されたものと認める。」というものであるが、その鑑定方法は特徴点指摘法と重合法とによっており、十分信用できるものである。

右回答書には、番号35の足跡は、踏み付け部と地面との凹凸から判断して、足先部のみの印象であって左方向に滑り込みながらつま先に力が加わった足跡である、したがって、普通の歩行状況で印象されたものでない足跡と推察されるとの記載がある。

この滑る方向であるが、佐貫克幸は、五五回公判で、左下から左上(右上の趣旨であろう。)に滑っていると思われると証言しているが、番号35の石膏足跡(符24)をみれば、右回答書のとおり、「左方向に滑っている」すなわち「右上から左下」方向に滑っていることが明らかであって、佐貫の右証言部分は誤りと認められる。

被告人が、一六日夜二五・五EEの運動靴を履いていたことは、右二五・五EEの運動靴を含む二足の運動靴の任意提出、領置に至る経緯、二六・〇EEの運動靴は証拠物として出ていないが、右回答書の写真によれば二足の靴裏の状態は明らかに相違していること、被告人の公判供述からして、何らの疑いもない。

そうすると、右回答書によれば、番号35の足跡は、被告人の二五・五EEの運動靴の左外底に類似しているというところ、番号36の足跡を印象したとほぼ同じような場所で、靴裏にかなり特徴のある二五・五EEの運動靴と類似する印象をなしうる運動靴を履いていた者がもう一人いてこの者が番号35の足跡を印象したとは到底考えられないから、番号35、番号36の足跡とも被告人の二五・五EEの運動靴による足跡と断定して何ら差し支えないというべきである。

番号35、番号36の足跡の位置については、夜の検証時の検証調書(員作成の7/30付け検証調書《検29》)添付の見取り図3、員作成の7/17付け足こん跡送付書《検38》添付の図面ほかがある。

ところで、右検証調書添付見取り図3には、足跡の位置が、東西については甲野方建物の東端から、南北については住居部玄関南端からの距離によって特定されて記載されているものの、いかなる理由か同時に記載されている看板の東西(横)が明らかに寸ずまりになっている。すなわち、看板(符22)は、縦約九三センチメートル、横約一八三センチメートルであるところ、右見取り図3の縮尺に基づいて計算すると、縦は約九〇センチメートルでほぼ実際と同じであるが、横は約一五〇センチメートルで実際と明らかに異なる。

また、例えば、番号45の足跡についてみるに、右検証調書の見取り図3によれば、甲野方建物の東端から一一五センチメートル、住居部玄関南端から一五四センチメートルの地点と書かれてある。しかし、寝室南側は幅約三・六五メートルで、窓下の瓦は前記のとおり住居部玄関の東側壁から約二・六二メートルのところまで、約六〇センチメートルの幅に置いてあったのである。そうすると、番号45の足跡は計算上では瓦の下に位置することになってしまうのである。

また、右足こん跡送付書の図面は、そもそも計測値が書かれておらず、おおまかな図面であるうえ、看板の大きさも明らかに横長すぎる形で書かれている。

しかし、右に述べたような問題点はあるものの、右両図面を総合し、夜の検証の際に足跡の位置に番号札を置いて撮影した写真、番号35の石膏足跡(符24)、番号36の石膏足跡(符25)なども子細に検討すれば、両図面に書かれてある位置付近に採取された足跡が存在したことは明らかであり(ただし、右両図面には番号46と番号47の各足跡の位置が入れ違って記入されている。)、かつ、番号35、番号36の足跡は、二本引きの南窓の西側(住居部玄関寄り)ガラス窓前で溝の南側側壁にかかるような位置に存在したことに疑問の余地がない。

また、これら及び右検証調書の足跡に関する記載の順序などを総合すると、夜の検証の際の看板の位置と足跡の位置との関係については、番号36、番号38の足跡は看板の下に位置し、番号35、番号37の足跡は看板のへりにかかって位置していたと認めてよいものと思料する。

番号35、番号36の足跡の方向であるが、右検証調書には、足跡がどちらを向いているかについては一切記述がない。しかし、事作成の元/1/21付け捜査報告書《検381》の添付図面には、足跡を採取した石膏の写真を裏焼きして貼付してあり、かつ、石膏の写真に写っている足跡そのものの方向(つま先方向)が矢印で示されている。

右添付図面は事件から相当経過した昭和六一年一一月ころ作成されたものであるが、員作成の元/2/10付け捜査報告書《検393》等によれば、現場で石膏で採取する際には足跡上に流し込んだ石膏がある程度硬化した時点で石膏の背面に採取年月日とともに磁石で方向を確認し北方向を示す印を釘などで掘り記入しているところ、本件の夜の検証の際も石膏に北方向を示す印を記入していたので、それを確認して右添付図面に石膏の裏焼き写真を貼付したこと、足跡の方向を示す矢印は石膏上に存する足跡の方向を確認して記入したことが認められるから、右貼付図面の裏焼き写真の貼付方向、足跡の方向を示す矢印は、検証当時の石膏の方向、足跡そのものの方向を再現しているものとみてよい。ただし、右添付図面には、番号46と番号47の足跡の裏焼き写真は貼付位置が入れ違っており、また、番号47の足跡の裏焼き写真が南壁に寄り過ぎて貼付されているという誤りがあるが、このような誤りがあっても、裏焼き写真の貼付方向そのものには格別の疑問を招来させるものではない。

そうすると、番号35、番号36の足跡は、いずれも左足で印象したものであるが、番号35の足跡はつま先が概ね南方向に向いており、番号36はつま先が概ね東南方向に向いているのであって、被告人は、寝室南窓を背にするようにして右二個の足跡を印象したものと認められる。

これらの足跡がいつ印象されたかなどの問題については、さらに後述する。

14  陰部拭き取りガーゼ

七月一七日午後一時四〇分ころ被告人から陰部拭き取りガーゼの任意提出を受けたこと前記のとおりであるが、鑑定の結果、血痕及び精液の付着は認められなかった(研究所技師作成の8/12付け鑑定書《検236》)。

15  被告人の爪について

陰部拭き取りガーゼと一緒に被告人から任意提出を受けた被告人の爪について、特異付着物の有無の鑑定がなされた。

右鑑定をした研究所技師清水正敏作成の8/15付け鑑定書《検64》によれば、ロイコマラカイトグリーン試液による血痕予備検査の結果、右示指の爪のうちの一個、右中指の爪の一個、右環指の爪一個に陽性反応があり、血痕の付着が疑われた、しかし、微量のため人血かどうかなどの検査は実施できなかったとされている。

16  ゼラチン紙付着の微物について

七月一七日午後一時ころ被告人の手平部等からゼラチン紙一三枚による微物採取がなされたが、右ゼラチン紙につき特異物付着の有無の鑑定をした研究所技師清水正敏作成の8/15付け鑑定書《検64》によると、「各ゼラチン紙を生物顕微鏡で観察したところ、鑑定資料二-二(右手親指付近)一か所、同二-三(右手手掌部)一か所、同二-四(右手手首付近)二か所、同三-二(左手親指付近)一か所、同三-三(左手手掌部)一か所、同三-四(左手手首付近)一か所、同四右足(足裏踵部付近)一か所、同五左足(足裏第二趾付近)一か所に植物性組織様のものの付着があった。鑑定資料三-四(左手手首付近)一か所に付着する植物性組織様のものは、昭和五六年七月一七日付け川鑑第二〇号をもって鑑定嘱託された「死体(甲野春子)微物採取のゼラチン」内の頸部から採取された微物に見られる植物性組織様のものの一種に顕微鏡所見が一致し同種のものと認められる。」とされている。

そして、同鑑定書には、被告人が鑑定資料三-四(左手手首付近)に付着させていたものが写真番号8(倍率一〇〇倍)及び番号9(倍率四〇〇倍)として、被害者が頸部に付着させていたものが写真番号10(倍率一〇〇倍)及び番号11(倍率四〇〇倍)として各添付されている。

被害者の頸部にあてたゼラチン紙について鑑定した西上教授作成の9/25付け鑑定書《検107》添付の写真番号14(後頸部付着のキヅタの葉の裏面の毛)と前記写真とを比較すれば、前記写真番号8及び番号9に写されているものが、キヅタの葉の裏面の毛であることは明らかである。したがって、前記鑑定書には同鑑定資料三-四(左手手首付近)に付着していた植物様のものの名称が記載されていないが、それは被害者が後頸部に付着させていたと同じキヅタの葉の裏面の毛であると認められる。

なお、弁護人は、前記写真番号10、番号11に写っている植物様のものには黒い球状のものがあるのに、写真番号8、番号9に写っている植物様のものにはこれがないので同種の植物とはいえないというが、この球状のものはプレート上に入り込んだ空気の球とみられるから、弁護人の主張は理由がない。

そこで、このキヅタの葉の裏面の毛が被告人の「左手手首付近」のどこに付着していたかであるが、前記清水作成の鑑定書添付の別紙13の左図の赤色でマークされている部分を右図のフリーハンドで書いた左手手首付近の図に合わせてみると、付着箇所は左手手首内側の小指寄りであることが分かる。そして、もとより左図と右図とを完全には連動して見ることはできないが、いずれにしても、キヅタの葉の裏面の毛の付着していた箇所は時計の絵のベルト付近であるといわざるをえない。

微物採取の際、被告人が時計をはめたままであったかどうかであるが、巡作成の7/17付け微物資料採取報告書《検62》には、この点に何らの記載もないが、採取の際のゼラチン紙の番号を示す図には、被告人の左手手首に時計の絵が書いてあり、かつ、採取の際に書いたと思われる前記右図にも時計の絵が書かれているのであって、被告人が時計をはめたままで微物採取を受けたものというのほかない。

そして、前記鑑定書の鑑定結果などには、左手手首付近に植物性組織様のものが付着していたというような記載があるが、この「左手手首付近」との記載は、左手手首付近に直ちに植物性組織様のものが付着していたということを示しているのではなく、鑑定資料三(左手採取ゼラチン)の内の四(左手手首付近)、すなわち、ゼラチン紙を当てた部分を指しているものというべきである。

そうすると、被告人の左手手首付近(採取の際の部分を示す名称)にキヅタの葉の裏面の毛が付着していたのであるが、それが、被告人の左手手首付近に直ちに付着していたのか被告人が当時はめていた時計の金属製ベルトに付着していたのか(ベルトの金属小片と金属小片との間にはさまるような形で付着していたというようなことが考えられる。)結局判然としないのである。

このキヅタの葉の裏面の毛がいつ被告人に付着したのか等については、後述する。

17  パンツ(符16)について

七月一八日午前一時五〇分に被告人が任意提出したパンツ(符16)について、二〇日付けで、血痕、精液の付着の有無の鑑定嘱託がなされたが、右鑑定をした研究所技師犬山玲子作成の8/6付け鑑定書《検69》によれば、「前二重布部分に淡黄色汚斑がある。血痕の付着は認められなかった。SMテスト試液による精液斑の検査をした結果、右記汚斑部は、対照精液斑に比べ、時間的に遅くまた弱い陽性反応を示した。該部を顕微鏡検査をするに、精子発見に至らなかった。右記汚斑部に尿の付着が証明された。汚斑部は尿と微量の精液の混合汚斑と思われる。精液の付着量が微量のため精液の血液型は判定できなかった。」とされている。

第三  自白以外の証拠による犯人性の検討

検察官は、自白を除くその余の証拠によっても、被告人が犯人であると断じうると主張し、弁護人は、これを争う。

検察官の主張の骨子は、自白を除くその余の証拠によっても、〈1〉被告人が、番号35、番号36の足跡を印象させたのは、事件当夜である七月一六日午後一一時三〇分ころに甲野ドライブインを出てから夏子らに旧農協ガソリンスタンド内で発見されるまでの間以外には考えられない、〈2〉被告人は、その際、看板を倒すような行動をしている、〈3〉被害者のパジャマ付着の六個の朱色塗膜片は、看板由来のものであり、犯人が看板に接触して塗膜片を身体に付着させこれを被害者に移着させたものである、〈4〉被告人の左手手首に付着していたキヅタの葉の裏面の毛は、本件犯行時以外の機会に付着したものとは考えられない、〈5〉被告人は、一七日午前一時前ころ、旧農協ガソリンスタンドに所在しなかったの各点が認められ、これらによれば、被告人が犯人であることが明白であるというのである。なお、検察官は、このほかに、犯人像を充足する人物は無制限にいるわけでないところ、被告人はこれを充足する人物である一方、当時多数の警察官を動員して聞き込み捜査などを実施したものの、被告人以外の不審者は浮かばなかったとの主張もしているが、これは〈1〉ないし〈5〉に基づく被告人が犯人であるとの検察官の主張を補強する趣旨で付加されているものであるので、これについては、後にパンツ付着の精液等のその他の情況証拠等について検討する際に検討することとする。

ところで、右〈1〉ないし〈5〉のうち、〈4〉については、仮に〈4〉がそのとおり認定できれば、これだけで被告人が犯人であると認めうるということになろう。〈5〉については、仮にこれが認定できた場合、被告人が犯人でないならば、被告人は午後一一時三〇分ころ甲野ドライブインを出てまもなくガソリンスタンドに入ったものとみられ、犯行と関係なく一時間以上も付近を徘徊していたとか、ガソリンスタンドに入る前に一度他所で寝ていたというようなことは状況的に考えられないことから(被告人も当公判廷で、飲んでの帰り道端などで寝た場合、目が覚めれば家にそのまま帰ると述べている。)、これらと併せ、被告人の犯人性を肯定しうることになるであろう。〈1〉については、仮にこれが認定できれば、犯人が南窓に近付いた可能性の相当高いことなどと併せて、相当積極方向へ作用する情況証拠となるであろう。〈3〉は、被告人の行動と犯人の行動の相似性を高める事実であって、これが認められれば、〈1〉の積極的作用力をより高めるといえよう。〈2〉については、その主張の具体的中味を見るとやや結論先取のところがあるので、看板を倒したのは犯人かどうかという観点から検討するのが適当と思われるが、仮に看板を倒したのが犯人であると肯定できれば、〈3〉と同様に〈1〉の積極的作用力を高めるといえよう。

そこで、以下、〈1〉ないし〈5〉について、まず、個別に検討を行い、次いで、その検討結果に基づくまとめの検討を行い、その後で、その余の若干の情況証拠等についても検討を加えることとする。

一  キヅタの葉の裏面の毛

1  被害者の前頸部からニンドウの茎の毛等が多数観察され、後頸部からはキヅタの葉の裏面の毛等が多数観察されたこと、ニンドウ、キヅタはいずれも死体発見現場に存するが、被害者の頭のあった付近にはなく、ニンドウの茎の毛、キヅタの葉の裏面の毛は、被害者の死体のあった付近に被害者を置いた際に自然に付着したものではないことは、前記のとおりであるところ、被害者は、一六日夜は風呂に入っていないものの、犯人と接触する以前から被害者がこれらニンドウの茎の毛、キヅタの葉の裏面の毛を多数頸部に付着させていたとは到底考えられない。

ところで、被害者は、犯人によって連れ出され、水を吸引させられ、強姦行為に及ばれ、最後には絞殺されたものである。

そうすると、被害者の後頸部にキヅタの葉の裏面の毛が付着していたのであるが、これは、犯行中犯人の手あるいは犯人が手に持っているキヅタを介して付着させられたものか、付着箇所が後頸部ゆえ、被害者が死体発見現場以外の場所で仰向けにされたときに首の付近にキヅタが生育していて自然に被害者の後頸部に付着したのかのいずれかであるとみられる。

そして、前者である場合は、犯人の手にキヅタの葉の裏面の毛が付着していたことは当然肯定できるし、後者である場合は、犯人が位置した付近にキヅタが生育していたということになるから、地面に手をついたりする行動などにより、犯人の手にキヅタの葉の裏面の毛が付着することは十分考えられるのである。

してみると、犯人は、犯行の際に、キヅタの葉の裏面の毛を自己の手指、手の平、手首などに付着させた可能性は極めて高いといえよう(なお、以上は犯人が素手であったとの前提に立っての推論である。)。

そして、被告人は、左手手首付近にキヅタの葉の裏面の毛を一個付着させていたのである。

しかし、以上の事実は、キヅタが本件死体発見現場付近にしか生育していないという特異な植物でなく、例えば、道端の斜面、川の土手の法面など種々の場所に生え得る植物であることのほか、被害者はキヅタだけでなく多種類の植物を付着させていたものであること、被告人もキヅタだけでなく種類数は不明であるが、他にも植物を付着させていたものであること、被告人の足の裏付着の植物は明らかに事件とは関係のない機会に付着させたものであることなどに鑑みると、これだけで、被告人と犯行とを結び付けることはできない。

被告人を犯人と断じうるためには、被告人の左手手首付近に遺留していたキヅタの葉の裏面の毛が一六日午後一一時三〇分ころ甲野ドライブインを出て一七日午前二時前ころ旧農協ガソリンスタンドで発見されるまでの被告人の行動不詳時間帯以外の機会に付着したものでないことが肯定される必要がある。

2  そこで、右キヅタの葉の裏面の毛が右以外の機会に付着したものである可能性があるかどうか検討する。

論告によれば、検察官は、被告人は一五日晩入浴しているのであるから、一六日朝以降において付着したものである可能性があるかどうかを検討すれば足るとの前提に立っている。

なるほど、被告人は、六六回公判で、一五日は早めに帰宅した、風呂は大体毎日沸かしている、早めに帰宅したときはいつも風呂に入っているので一五日の晩も風呂に入ったと思う旨供述しているところ、被告人が一五日甲野ドライブインに行っていないのは間違いないこと、当時が夏の暑い時期であったことを考えると、被告人の述べるように一五日は風呂に入ったものと認めてよいであろう。

しかし、右のキヅタの葉の裏面の毛は、左手手首内側に直に付着していたかもしれないし、腕時計の金属製ベルトに付着していたのかもしれないこと前記のとおりであるから、一六日以降において付着したものである可能性があるかどうかを検討するだけでは不十分であることが明らかである(なお、腕時計のベルトの金属小片と金属小片にはさまるような形で付着すれば、その後の経緯にもよろうが、相当の時間遺留していることもありうると思われる。)。

そこで、一五日以前に付着したものである可能性の有無からみることにすると、一五日以前の被告人の行動状況については、証拠上ほとんど明らかになっていないため、右の可能性の有無に関しても、当時は夏でもあり屋外の仕事が多かったとみられるので、休憩時間などに作業着の袖をまくりあげた状態で草に触れるようなことがあったかもしれないという程度のことが推測されるだけで、それ以上の解明はできない。要するに、本件の証拠関係の下では、右の可能性の有無を知る手掛かりが不足しているのであり、右キヅタの葉の裏面の毛が一五日以前に付着したものであるとの可能性を否定しきれないのである。

3  次に、右キヅタの葉の裏面の毛が一六日の塗装の仕事をしている間に付着したものである可能性があるかどうかについてみると、被告人が当日三宅熊二と組んで勤労会館横のポンプ小屋の外壁、瑞穂楽器の建物の外側の鉄骨階段の塗装作業等に従事したことは前述のとおりであるが、被告人は、六六回公判において、勤労会館横のポンプ小屋は川のへりに建っており法面は草であった、ポンプ小屋の横や裏には二〇センチメートル位の草が生えており、草の中に入って塗装作業をした、また、瑞穂楽器での塗装作業の際の休憩時間中に、自分は釣りが趣味であるので、同建物の南側を流れている川にどんな魚がいるか見ようと思い、川の土手を下りたり上がったりした、法面が急で高低差が二メートル位もあるため下りるときも上がるときも手で草を持ったりしたと述べており、この供述が信用できないとはいえないところ、これによれば(なお、これらの場所にキヅタが生育していなかったとの立証はなされていない。)、手、手首、軍手、作業衣ズボン、作業衣上衣袖口等にキヅタの葉の裏面の毛が付着した可能性があるというべきである(被告人は、六六回、七二回公判で、当時まだ仕事に慣れていなかったので、塗装作業中は長袖の作業着の袖は下ろしていた、また、軍手は塗装作業中はめたりはめなかったりしていた旨述べている。休憩時間中弁護人主張のように腕まくりするのが普通であったかどうかについては供述がないが、夏の暑い時期でもあり、腕まくりするのがどちらかというと自然ではある。)。もっとも、被告人は、同じく六六回公判で、一日の作業が終わって三宅塗装に帰ると、塗料の飛沫を落とすためシンナーで手を洗っていた旨供述している。そして、検察官は、これを、被告人の左手手首付近付着のキヅタの葉の裏面の毛が一六日の昼間付着したものでないことの根拠の一つに用いている。しかし、洗い方によっては(被告人が一六日どのような洗い方をしたかは不明である。)、手指、手の平付着の植物の毛はともかく、手首付近付着の植物の毛についてはその一部しか脱落しないことも考えられるから(ちなみに、検察官は、被告人が8/7付け検面《検101》で、自宅で警察官の事情聴取を受けた後顔を洗い手を洗ったと述べている点に関しては、手を洗っても犯行時手首付近に付着させたキヅタの葉の裏面の毛がすべて洗い流されるとは考えられないとしている。)、被告人の左手手首付近付着のキヅタの葉の裏面の毛が一六日の昼間付着したものであるとの可能性が否定されることにはならないのである。しかのみならず、軍手、作業衣上衣袖口、作業衣ズボン等にキヅタの葉の裏面の毛が付着した可能性のあること前記のとおりであるが、被告人の左手手首付近に遺留していたキヅタの葉の裏面の毛が僅か一個であるだけに、当初左手手首付近以外の場所に付着したキヅタの葉の裏面の毛がその後なんらかの理由により、被告人が手を洗った後、被告人の左手手首付近に付着したというようなことも考えうるのである。

以上要するに、被告人の左手手首付近付着のキヅタの葉の裏面の毛が一六日の昼間被告人に付着した(当初は別の場所に付着した場合も含む。)ものである可能性を否定できないのである。

4  キヅタの葉の裏面の毛が一七日朝以降に付着したものである可能性についてみる。

被告人は、一七日朝半袖Tシャツ、ズボン、素足につっかけという姿で、自宅と甲野ドライブイン付近までを徒歩で一往復半し、甲野ドライブインの周辺を三〇分弱位歩き回って被害者の捜索をした。被告人の歩いた時間は合計で一時間位のものであろう。その際、被告人は、草の生えている幅員の狭い地道(未舗装の道)を相当歩いた。また、舗装道も歩いたが、その道端には草が生えていた。さらに、道の山側が草に覆われた切り立った崖になっているようなところも歩いた。そして、当時は夏でもあり、これらの草も相当繁茂していたであろうと思われる。被告人は、このような道を通って自宅と甲野ドライブイン付近との間を行き来し、また、被害者の捜索をしたのである。

このような状況に鑑みると、捜索のため草を掻き分けたりするというようなことは当然あったと思われるし、また、何の気なしに手で草に触れたり、これを引きちぎったりするというような行動もありえたと思われる。したがって、この機会に、被告人がズボン、足等だけでなく、手や手首に植物を付着させたことは十分考えられるのであって、そうであれば、左手手首付近付着のキヅタの葉の裏面の毛がこの機会に付着した(当初は別の場所に付着しその後移着した場合も含む。)ものである可能性を否定できないのである。

ところで、検察官は、被告人がこの機会に手で草に触った可能性、左右の手親指付近に付着していた植物がこの機会に付着したものである可能性は認めながら、キヅタの葉の裏面の毛はこの機会に付着したものではないと主張する。

そして、その根拠の一つとして、キヅタの葉の裏面の毛の付着位置が左手手首付近であることを挙げる。

しかし、草の繁茂しているような場所で草に触った可能性があるのなら、左右の手親指への付着の可能性だけでなく(なお、親指への付着箇所は、右手は月丘やや外側付近であり、左手は親指の第一関節付近である。)、左右の手掌部への付着の可能性(手掌部への付着箇所は、右手は小指側のやや外側付近であり、左手は親指と示指間のいわゆる水掻き部分である。)、左右手首への付着の可能性もあるといわなければならないであろう。のみならず、当初は別の箇所に付着して何かの理由によりその後手首に移着したというようなことも考えられるのである。

検察官は、根拠の第二として、キヅタは木にはうか地面にはうかしているもので、自立しているものではないとの点を挙げる。

しかし、被告人が立った状態でしか手で植物に触れなかったとはいえないし、また、被告人が崖に生えているキヅタに手で触れなかったともいえないのである。そのうえ、前記の移着の可能性も考えれば、キヅタの植生から、キヅタの葉の裏面の毛が、被告人方と甲野ドライブイン付近との行き来や被害者捜索の機会に被告人に付着したものでないとすることはできないのである。

5  以上みてきたように、被告人は左手手首付近に被害者の後頸部に付着していたと同じキヅタの葉の裏面の毛を付着させていたものではあるものの、このキヅタの葉の裏面の毛の付着の機会としては、前記の行動不詳時間帯以外ということも十分考えられるのである。そうすると、右の被告人がキヅタの葉の裏面の毛を付着させていた事実は、被告人が犯人なのではないかとも疑わせる事由ではあるが、その程度のものに止まるものといわなければならない。

二  旧農協ガソリンスタンドでの不在

1  前述のように、被告人は、一七日午前二時ころ、旧農協ガソリンスタンドで、夏子らに発見されたのであるが、その際の被告人の位置、状態などは次のとおりである。

右発見時、被告人は頭を北方に向け、仰向けになり、両手を頭の下に置き、運動靴は両足とも脱いで腰の下付近に置いていた。被告人の服装は、ベージュの作業着上下、白色の靴下であった。

夏子が一七日の夜の検証の際に指示したところによれば、被告人の頭の位置は、ガソリンスタンド東側ブロック塀から約二・〇メートル、北川ブロック塀から約四・七メートルの位置であり、被告人の体は東側ブロック塀にほぼ平行になっていた(員作成の7/30付け検証調書《検29》)。

ガソリンスタンドの北西方向には水銀灯1があったこと、ガソリンスタンド内には、北側ブロック塀の陰になり水銀灯1の光が差し込まない部分があったことは、前記のとおりであるが、62/10/6施行裁判所検証調書によれば、夏子が指示したとおりに被告人が位置すればその全身が右陰の部分に入ることになる。

2  佐々木義夫(同人が藤原、新屋とともに一七日午前一時前ころ甲野ドライブインを出てガソリンスタンドに停めてあった同人の車に乗り、同人の運転で帰ったことは前記したとおりである。)は、一四回公判において、一六日午後六時三〇分ころ甲野ドライブインに車で来たとき車はガソリンスタンドの道路側から向かって左側(北側部分)に、前方を奥(東側)に向けて停めていたので、帰るときはバックして出、旧国道を北に向かった、ガソリンスタンドの北東角は水銀灯1からは死角になり、その部分は塀のため照度が落ちている、その部分に人がいるかどうか確かめたわけではないが、車に乗って帰る過程で自分は誰も見掛けなかったと証言している。

なお、小泉義則(同人が熊二、前田、三浦とともに十七日午前一時前ころ佐々木、藤原、新屋より一足先に甲野ドライブインを出てガソリンスタンドに駐車してあった熊二の車に乗り、熊二の運転で帰ったことは前記したとおりである。)も、五四回公判において、帰る際にガソリンスタンドで誰も見掛けなかったと証言しているが、小泉らが帰る際ガソリンスタンドで誰も見掛けなかったことが被告人の不在を推認させるかどうかの検討は、佐々木らが誰も見掛けなかったことが被告人の不在を推認させるかどうかの検討を行った後に行うことにする。

3  佐々木らは、帰る際に被告人を見掛けなかったのであるが、そのとき被告人が夏子の指示した付近にいたのであれば、検察官主張のように、被告人に気が付いたはずであるといえるであろうか。

まず、当夜の天候についてみることにする。

小泉義則は、7/22付け員面《検287》で、殺人事件のあった当日の天候は朝から晴天であり、飲みに行った晩も月夜で明るい晩であったと供述している。

しかし、小泉は、石見町大字矢上に居住し稼働しているものであるところ、事件当日の夕方同町大字井原地内の甲野ドライブイン周辺では二回夕立が降っていること、小泉は一六日午後一〇時三〇分ころ甲野ドライブインに来て一七日午前一時前ころ甲野ドライブインを出たのであるが、当夜月が出ていたことをいつごろどの付近で確認したのかはっきりしないことなどからして、小泉の右供述を事件当夜、とりわけ、一七日午前一時前ころの甲野ドライブイン付近での天候を推測するのに用いるのには問題があるといわなければならない。

夏子は、7/24付け検面《検18》で、「満月に近い月夜だった。」旨供述し、六四回公判及び期日外尋問で、「春子を捜索しているとき空を見た。きれいな月夜だなと思った。月の近くに雲はなかった。」旨証言している。

なお、関係者の中に一六日深夜に雨の降ったことを述べている者はいない。

気象関係のデータは次のとおりである。

浜田測候所長作成の58/7/12付け捜査関係事項照会回答書《検180》等によると、死体発見現場から約三五キロメートル離れた浜田測候所における一六日午前九時から午後一二時までの間の三時間ごとの観測結果は、天気薄雲り、雲量はいずれも一〇で、午後一二時の上層の雲の状態は濃密な巻雲(雲量一〇)、中層のそれは半透明状の高積雲(雲量三)であり、一七日午前三時は天気晴れ、雲量は二、同日午前六時は天気曇り、雲量一〇であった。また、死体発見現場から南方に約七・一キロメートル離れた瑞穂地域気象観測所では、一六日午後三時から午後四時までの間に六ミリメートル、午後六時から午後七時までの間に一〇ミリメートル、一七日午前〇時から午前一時までの間に一ミリメートルの雨量が観測されているが、死体発見現場から北方に約七・九五キロメートル離れた川本地域気象観測所、同現場から北西方に約一四・二五キロメートル離れた桜江地域気象観測所では一六日、一七日にはいずれも雨量は観測されなかった。

員山田悟作成の8/6付け捜査状況報告書(三枚綴りのもの)《検208》によると、死体発見現場から南々西方に約四キロメートル離れた石見町役場(石見町大字矢上所在)では、一六日、一七日にかけて雨量は一切観測されていない。

以上みてきたように、当夜の甲野ドライブイン付近の天候について、供述で具体的な内容を有しているのは、夏子のそれであるところ、夏子のきれいな月を見たという時期は捜索のかなり早い時期であったとも窺われるところである。しかし、気象関係の資料では、瑞穂地域気象観測所で一七日午前〇時から午前一時までの間に一ミリメートルの雨量が観測されており、このことは、その付近ではその時刻ころ雲が相当あったことを推測させるし、また同じ山間部である甲野ドライブイン付近でもその時刻ころ一時的にしろ雲がある程度出てもよいような条件があったかもしれないことを思わせるのである。また、上層の雲の通常流れて来る方向である西方に位置する浜田測候所上空上層には一六日午後一二時の時点で単なる巻雲でなく濃密な巻雲が雲量一〇で存在したという状況もあったのである。

そうすると、甲野ドライブイン付近で事件当夜雨が降るということはなかったと認められるものの、一七日午前一時前ころと時間を限定して、その時点で月がきれいに見える状態であったかどうかについては、そうであった可能性も相当あるが、上空に雲があり、かつ、月がちょうどその中にあって、月の照度が落ちていたというようなことも考えられるので、結局は確定はできないということになる。

4  そこで、これを前提に、一七日午前一時前ころの旧農協ガソリンスタンド内の明るさ、とりわけ被告人がガソリンスタンド内にいたとすれば水銀灯1の光がガソリンスタンド北側のブロック塀によって遮られる部分にいたと考えられるので、該部分の状態について、どのようなことが認められるのかについて検討する。

当夜の月齢であるが、東京大学東京天文台長作成の63/1/12付け《検312》、63/1/27付け《検314》各捜査関係事項照会回答書等によれば、一七日午前一時前ころは、月齢が約一四・八で、高度が約三〇度であった。

62/10/6付け裁判所検証調書によれば、昭和六二年一〇月七日午前〇時五九分(月齢約一三・五、高度約五〇度)から約一時間にわたってガソリンスタンド内の北東角付近の視認可能性について検証した結果は、次のとおりであった。

夏子らが被告人を発見した際の被告人の頭の位置に、黒地に白抜きで2と記載された表示板を置いて、同スタンドの道路寄りからそれを見た場合、空の薄曇りの度合が強くなったときは、よく注意してみれば表示板が存在することが分かり、表示板の中心に2らしき文字が白色で縁が黒色であることが識別できた。同じ薄曇りであるが、右の状態よりも月の光が少し差し込んだときは、右より鮮明に表示板のあることが識別でき、表示板の数字も読めた。雲が厚くなって完全に曇天となり月のあることが雲を通して微かに分かる程度の状態になったときは、表示板のある地点上に何かあることは分かるが、それが何であるか識別できず、2の文字も読めなかった。

検察官は、この検証結果から、夜間ガソリンスタンド北東角付近に存在する物を見ることができるかは、月の光の地上における明るさによって大きく左右されることが認められると主張する。

たしかに、ガソリンスタンドの陰の部分に存在する物が人の目に入るかどうかは、月の光がどの程度差し込んでいるかに影響される面は認められるものの、右検証は、当然のことながら、ガソリンスタンドの陰の部分に物が存在することを知ったうえで物を見ようとしたものであって、このことも正しく認識しておかなければならない。

さらに、検察官は、右検証時の月齢、高度と一七日午前一時前ころの月齢、高度とを比較したうえ、いずれも空が快晴であり、大気透明度は良好との仮定に立って、右検証時の地上照度と一七日午前一時前ころの地上照度とを各計算し、計算上は検証時と比較して一七日午前一時前ころの方が月の光自体の明るさだけでも約二四パーセント(〇・〇六ルックス)も明るかったと主張する。そして、検証時は薄曇りまたは曇天であったのに事件当夜はほぼ晴天であったことをも考慮すれば、月の光の地上における明るさは、事件当夜は検証時と比較して相当明るかったと主張する。

たしかに、検察官の右計算自体には誤りはないのかもしれないが、前述したところに照らせば、一七日午前一時前ころの方が月の光の地上における明るさが検証時よりも相当明るかったとは確言できないうえ、たとえ一七日午前一時前ころの方が検証時より相当明るかったとしても、結局は月夜の話であり、ブロック塀によって水銀灯1の光が遮られてできる陰の部分にある物がたやすく目に入るほど明るくなったとまではいいきれないのである。

5  そこで、進んで、佐々木らが誰も見掛けなかったことから被告人の不在という結論を導けるかどうか考察する。

佐々木らは、甲野ドライブインから出てガソリンスタンド内の道路から見て左側に駐車してあった車に乗り込んだのであるが、ガソリンスタンドの敷地の奥行き(東西の長さ)が約一七・七メートルであること(62/7/14施行裁判所検証調書)や普通車の車体の長さなどを考慮すると、車に乗り込んだ者と夏子が指示した被告人の位置(被告人がこの時ガソリンスタンド内にいたとすればやはりこの位置付近にいたであろう。)との距離は約一〇メートル余りであったと認められる。そして、佐々木は、車をバックさせて北方に向かったのである。なお、佐々木は、ガソリンスタンド内は水銀灯から死角になる部分を除いて水銀灯の光で前照灯をつける必要のないくらいの明るさがあった、前照灯をいつつけたかははっきりしない旨証言している。

検察官は、佐々木らの位置からして被告人がいれば見えたはずであり、また、佐々木は前照灯を発車前に点灯したとみるべきであり、そうであればなおさら被告人が見えたはずであると主張する。

しかしながら、水銀灯の光で前照灯をつける必要のないくらいの明るさがあるという状況下であれば、前照灯を点灯しないでバックするということも十分考えられるから、運転者である佐々木自身がはっきりしないと言う以上、前照灯をバックする前に佐々木が点灯したはずであるなどとすることはできない。

そして、佐々木らは甲野ドライブインに六時間以上もいて酒を飲んでおり、既に午前〇時をかなり回り帰りを急いでいたであろうし、三人で話をするなどしながら車に乗り込んだであろうし、また、ガソリンスタンドの道路側から見て左側からガソリンスタンド内に入って来たのであるから、ガソリンスタンド北東角付近に視線を送らなかった可能性もあるうえ、ガソリンスタンド内の北東角付近に人がいるかもしれないなどとは全く思ってもいなかったのである。しかも、被告人はガソリンスタンドのコンクリート面と似た色のベージュの作業衣上下を着ており、また、佐々木らは甲野ドライブインを出てまもなくガソリンスタンドに入ったのであるから暗さにまだ十分目が慣れていなかったという事情も存したと思われる。

これらの点を考えると、この時点の月の光の地上における明るさが前記検証時より相当明るかったとしても、佐々木らが被告人を見掛けなかったからといって、被告人が所在しなかったとは認定することができないのである。

6  小泉らが帰る際被告人を見掛けなかったことから、被告人がガソリンスタンドにいなかったことを推認できるかどうかについて検討する。

まず、小泉らの乗った車が駐車してあった位置であるが、同人は、その7/22付け員面《検287》において、「乗ってきた車は甲野ドライブインの右隣にあるガソリンスタンドの右側に駐車した。」と述べており、これによれば、同人らの乗った車はガソリンスタンドの南側に駐車してあったものと認められる。

もっとも、小泉は、五四回公判で、「道路側から見てガソリンスタンドの左側(北側)の左端(北端)に駐車した。」と証言している。そして、右員面の「ガソリンスタンドの右側」とはガソリンスタンドの中から見て右側という趣旨であると証言している。

しかし、右員面の「甲野ドライブインの右隣」というのは道路から見てという趣旨であることは明らかであって、これよりすれば、右記述に続く「ガソリンスタンドの右側」というのも道路から見てという趣旨で述べられているものと理解するのが自然であること、小泉は当時甲野ドライブインによく飲みにきており、ガソリンスタンドにもしょっちゅう駐車していたものであること、小泉の右証言は事件後六年近く経過してからなされているものであることなどに鑑みると、右小泉の証言は信用しにくい。

そうすると、被告人が夏子らに発見されたときの位置と右車との距離は二〇メートル近くあった可能性があるうえ、小泉らは帰る際に右位置の方に行ってはいないとみられるのである。また、車の向きは不詳であり、道路側を向いていた可能性も否定できない。そして、先に指摘したガソリンスタンドの明るさ、被告人の服の色等のほか、小泉らも帰りを急いでいたであろうこと、小泉らも話をするなどして車に乗り込んだであろうこと、小泉らもガソリンスタンドの北東角の方には視線を送らなかった可能性があること、小泉らも北東角に人がいるかもしれないなどとは思ってもいなかったであろうこと、小泉らもまだ十分暗さに目が慣れていなかったであろうことなども総合考慮すれば、小泉らが被告人を見掛けなかったことから被告人がいなかったと推認することはできないのである。

7  以上要するに、佐々木証言、小泉証言によっては、被告人の不在は証明されていないというほかないのである。

三  二個の足跡

1  番号35、番号36の足跡が被告人の二五・五EEの運動靴により印象されたものであることは、前記のとおりであるが、被告人がいつこれを印象させたかについて検討する。

まず、被告人が事件当夜甲野ドライブインには下酒屋から徒歩で向かい甲野方寝室南側に行くことなく店舗玄関から同店に入ったこと、旧農協ガソリンスタンドで夏子に発見されて後甲野方寝室南側に行くことなく帰ったことは全く疑問の余地がない。

被告人が七月に入って甲野ドライブインに来たのは、事件当夜を除くと、一日、二日、四日、六日、八日、一〇日、一一日、一二日、一三日の八日間であるが(夏子の六四回証言、甲野ドライブインの売上メモを移記したノート二冊(符11)、売掛台帳二枚(符20))、このうち、一三日については、この日被告人は下酒屋で飲んだ後バイクを置いて徒歩で甲野ドライブインに向かい、途中にある田の付近で蛍を採り、これを持って甲野ドライブインに行ったこと、この時に甲野ドライブインには住居部玄関の方には行かずに店舗玄関から店に入ったことが明らかであり(被告人の六回、二〇回、二一回、二三回、六六回、七一回各公判供述等)、また、帰る時は足もふらつくような状態であったため三宅熊二らに店から連れられて帰ったものとみられるから(夏子期日外証言、甲野ドライブインの売上メモを移記したノート二冊(符11))、この日に被告人が二個の足跡を印象させたことはなかったものと認められる。

そうすると、二個の足跡を印象させた機会としては、一六日午後一一時三〇分ころ甲野ドライブインを出てから旧農協ガソリンスタンドで夏子に発見されるまでの間か、一二日以前に甲野ドライブインに飲みに行った際かのいずれかであり、後者の機会であることが否定されればおのずから前者の機会に二個の足跡を印象させたということになるのである。

2  そこで、後者である可能性があるかどうかについて検討する。

佐貫克幸の五六回証言によれば、番号35、番号36の足跡には雨滴の痕跡はなく、鮮明な足跡であったというのであり、員作成の7/30付け検証調書《検29》、員作成の7/17付け足こん跡送付書《検38》、員作成の61/11/25付け現場足跡状況報告書《検275》等に添付の右二個の足跡の写真を見ても、足跡には雨滴の痕跡はなく、雨滴による足跡の崩れは全く認められない。

ただし、足跡からだけでは、印象後一日経過したものか、二日経過したものか、あるいはそれ以上経過したものかなどを判断することは困難である。

後者の可能性の有無を判断するには、雨が一三日以降いつ降ったのか、一三日以降の雨により寝室南側犬走り前の溝が溢れ番号35、番号36の足跡のある付近に雨水が滞留したことがあるのか、また、一三日以降看板は立っていたのか倒れていたのかなどをみていく必要がある。

3  員作成の8/6付け捜査状況報告書(三枚綴りのもの)《検208》、夏子の7/24付け検面《検18》等によれば、甲野ドライブイン付近では、一六日午後四時三〇分ころに一回夕立があり、午後六時すぎころにももう一度夕立があったことは明らかである。

また、右捜査状況報告書、松江地方気象台長作成の61/10/22付け捜査関係事項照会回答書《検318》によれば、瑞穂地域気象観測所では、一三日に降水量五ミリメートル、川本地域気象観測所では、一三日に降水量五ミリメートル、一四日に降水量一二ミリメートル、一五日に降水量九七ミリメートル、桜江地域気象観測所では、一三日に降水量二ミリメートル、一五日に降水量二一ミリメートル、石見町役場では、一三日に降水量一〇ミリメートル、一四日に降水量六ミリメートル、一五日に降水量三・五ミリメートルの各降雨が記録されており、この観測結果をみると、一三日には甲野ドライブインの回りにあるすべての観測地点で降雨があったことが認められるのであって、これに照らせば、少なくとも一三日には甲野ドライブイン付近でもある程度の降雨があったことは間違いないと認めうる(これ以外の日にも降雨があった可能性は相当あるが、断定はできない。)。

そうすると、一三日以降、少なくとも一三日と一六日に降雨があったことになるところ、もし、この降雨のため寝室南側犬走り前の溝が溢れ、番号35、番号36の足跡が印象されている付近に雨水が滞留したとすれば、看板が倒れていたか否かにかかわりなく、その付近に足跡があっても崩れてしまったであろうから、二個の足跡が後者の機会に印象されたことを否定しうる。

一三日の降雨状況は不明であり、一六日の一回目の降雨の状況も明瞭でないが(ただし、一時間位降った可能性がある。)、一六日の二回目の雨はかなり土砂降りであったようである。そして、このことと、この雨は既に一回目の雨によって地面が湿潤しているところに降ったものであることや、一郎の五五回及び期日外における、溝の水捌け状況(一郎は、ちょっとした雨、例えば、夕立くらいでも溝は溢れる旨述べる。)、犬走りと溝南側との高低差(一郎は、犬走りの方が全体的に低い旨供べる。)、南側敷地の東西の高低差等に関する証言、員作成の61/11/25付け現場足跡状況報告書《検275》添付の写真番号32、36等に見られる犬走り上の湿潤した泥の極めて平滑な状態等に照らすと、右二回目の降雨の際、溝が溢れて犬走り上に水が上がるようなことはあったであろうと思われ、さらに、番号35、番号36の足跡のある付近にも(これらが溝の南側側壁にかかるような位置に存在したことは前記のとおりである。)水が上がった可能性もかなりあると考えられる。

しかし、番号35、番号36の足跡のあった付近が溝の側壁よりどのくらい高いのか、そこと犬走りの例えば番号45の足跡のある付近(番号35、番号36の足跡のある付近よりは溝の上流にある。)とは厳密なところで高いのか低いのか等々の詳細は不明であるため、結局は、番号35、番号36の足跡のある付近に水が上がったとは断定できないのである。

したがって、溝の溢れ方から、番号35・番号36の二個の足跡が後者の機会に印象されたものでないことを否定することはできないというべきである。

4  ところで、前記のとおり、一三日と一六日夕方降雨があったのであるが、このとき看板が倒れていなければ、番号35、番号36の足跡(なお、一郎が倒れている看板を見付けた際の看板の位置であるが、夜の検証時の看板の位置と概ね同位置であったと思われるものの、厳密な位置は不詳であり、番号35の足跡も看板に一部でなく全部隠れていた可能性も否定できない。)のあった付近に足跡があっても、雨滴により番号35、番号36の足跡にみられるような鮮明さは失われるはずであるから、番号35、番号36の足跡は、後者の機会に印象されたものでないことを断言しうる。そして、右のとおり、一三日以降一三日と一六日の二日雨が降ったのであるから、これらの雨があっても番号35、番号36の足跡が保存されてきたというためには、一三日以降事件当夜まで看板が倒れていたという必要がある。

そこで、検討する。

渡は、看板について、8/1付け員面《検25》で、いつも看板の前を通ってごみ焼きに行っていたが、七月一六日午後六時ころごみ焼きのためそばを通ったところ、看板は立て掛けてあった、立て掛けてあった看板を見たときは看板は表が外を向いていた、一七日の夜明け被害者を捜しているときに看板の倒れていることに気付きおかしいと思った、このときは看板の表が出ていたと供述している。

しかし、渡の右供述中、看板の立て掛けてあった状況、倒れていた状況に関する部分は、一郎の8/18付け員面《検12》中の、一七日午前二時ころ被害者を捜しているときに看板の倒れているのを見たが看板は表が出ていた、この看板が寝室窓前に立て掛けてあったときの状態は、表が外を向いていれば雨垂れ等で汚れが付くと思うのに汚れていなかったので、表は壁の方を向いていたと思う旨の供述や夜の検証時倒れた看板は表を上にした状態であったことに照らし、措信できない。そして、このことと、渡の記憶力に相当問題のあることは前記したとおりであるところ、右の調書作成が事件から一か月経過後であったことなどを考慮すると、渡の供述により、一六日の午後六時ころ看板が立て掛けてあったとの事実を認定することには躊躇を感じる。

しかしながら、渡は甲野ドライブインでは掃除その他の主として下働きをしていたものであるところ、甲野方は飲食店でもあり、南側敷地にごみ焼却用のドラム缶が二個置いてあったことからも窺い知れるように、日々出るごみもかなりの量があったとみられる。したがって、そのごみを処理するため渡も南側敷地には日常的に行っていたと思われるのであって、渡の右員面における、いつも看板の前を通ってごみ焼きに行っていたとの供述もそのような趣旨のものとして理解しうる。そうすると、一六日の午後六時ころに南側敷地に行ったかどうかはともかく、渡が南側敷地に事件前最後に行ったのは事件にごく近接した日時であったであろうとみられるし、また、渡の員面には前記のように問題はあるがともかくも渡が前記のように述べていることを考えれば、最後に行ったときを含め事件前ころ渡が南側敷地に行った際には看板が倒れているという異常な状態は一度もなかったものと考えられる。

また、看板は寝室南側にあったものであり、また、これが倒れた場合昼間であれば住居部玄関前付近に立っても倒れていることが目に入るところ、一郎も夏子も事件前ころこれが倒れていることに一切気付いたことはなかったのである。

しかして、後者の機会に印象された可能性が肯定されるためには、前記のとおり一三日以降四日間も看板が倒れていたという必要があるところ、以上述べたような状況に照らせば、そのようなことは到底ありえないと考えられるのである。

5  そうすると、番号35、番号36の二個の足跡は、後者の機会でなく、前者の機会、すなわち、事件当夜被告人が午後一一時三〇分ころ甲野ドライブインを出てから被告人が旧農協ガソリンスタンドで夏子に発見されるまでの間に印象されたものと認めうるのである。

ところで、この印象時間帯であるが、これはさらに次のように縮減できる。

すなわち、被告人が犯人でないならば、前述のように店を出て旧農協ガソリンスタンドに入るまでの間にさほど時間があったとは思えないから、二個の足跡を印象させたのは店を出てまもなくということになり、被告人が犯人であれば、右二個の足跡は被害者連れ出しの際印象させたものとみてよいから、遅くとも連れ出し可能時間帯の終期までにはこれを印象させたはずということになる。要するに、最大幅で考えても、午後一一時三〇分ころから翌一七日午前〇時四〇分ころまでの間に被告人は二個の足跡を印象させたものということができるのである。

そして、右印象時間帯から翻って考えてみるに、一六日夕方夕立があり、二個の足跡には雨滴による崩れはなかったのであるから、一六日の夕方には寝室南窓前に看板は立て掛けられた状態にあり(なお、南窓の横幅は約一八〇センチメートルであるが、この南窓の横との関係で、横幅約一八三センチメートルの看板がどのような位置に立て掛けられていたのか正確なところは分からない。しかし、一七日の夜の検証時の看板の倒れていた位置等からして、多少のずれはあったであろうが、概ねは窓の端から端の辺りに立て掛けられていたのではあろう。)、その後被告人が右印象時間帯に足跡を印象し、その後看板はいかなる理由かはともかく倒れ、その後一郎が倒れた看板を発見したということになる。

なお、付言すると、以上述べてきたことや一郎の五五回及び期日外における寝室南側敷地の土質等に関する証言、一七日夜の検証の際に採取された足跡の状況及び周囲の土ないし泥の状況を総合すれば、後に問題となる番号38の服部隆の足跡が一六日の降雨前に印象されたものでないことは明らかであるし、その余の印象者判明足跡、印象者不明足跡も同様と認めうる。

6  弁護人は、種々の観点から、二個の足跡が事件当夜より前に印象されたものである可能性が高いと主張する。

しかし、その主張の理由のないことは、既に述べてきたところから明らかである。

ところで、弁護人は、右主張を理由付ける根拠の一つとして、被告人の六七回公判における「○○塗装に勤め始めてから(六月八日以降)、一度だけ甲野ドライブインにバイクで飲みに行ったことを思い出した。時期ははっきりしない。このとき甲野ドライブインの南側にバイクを停めたが、住居部玄関から西側(旧国道側)であったか東側であったか覚えていない。」旨の供述を挙げ、これによれば、本件二個の足跡が事件当夜より前に印象されていたものである可能性を否定できないとしている。

しかし、被告人は、二個の足跡の印象時期に関して、六六回公判まで、繰り返し質問を受けて、「甲野ドライブインの右横の住居部玄関の方へちょこちょこは行っているが、事件の数日前とか数週間前とかに行ったことはない。」(六回公判)、「事件前の一番近い時期に甲野ドライブインに行ったのは、事件の二、三日前で、飲みに行った。そのときは店の正面入り口から入り、住居部玄関から入ったものではない。」(二〇回公判)、「寝室の窓の方へは、事件より大分前屋根を直した時に行ったことはある。以前行ったからそこに足跡があるということはないと思う。窓の方に足跡が付いていたとすれば、当夜店を出てからガソリンスタンドで起こされるまでの間に付いたぐらいしか考えられない。」(二一回公判)、「バイクで甲野ドライブインにきたことは何回もあるが、そのときは住居部玄関の西側(旧国道側)に置いた。寝室窓下の辺りに行ったのは事件の一年位前である。そのときはトラックで瓦を運んで来て、寝室の窓の前辺りに車を付けて瓦を降ろした。」(二三回公判)、「森広鉄工に勤めていた当時、甲野ドライブインの横にバイクを置いたことがある。○○塗装に勤めるようになってからは、甲野ドライブインにバイクで行ったことはない。」(六六回公判)などと供述して来たものであって、このような供述経過と供述内容に照らせば、被告人が六七回公判で述べるようなことがあったとは到底考えられないのであって、これを信用するわけにはいかないのである。

しかのみならず、被告人が六七回公判で述べるようなことがあったとの前提に立っても、そのようなことがあったのは、一三日でも、一六日でもないこと明らかであるから、前記の判断には何ら影響するところはないのである。

7  以上のとおり、被告人は、事件当夜の一六日午後一一時三〇分ころ店を出てから被害者連れ出し可能時間帯に寝室の南側敷地に行き、番号35、番号36の足跡を印象させたのである。

そして、番号36の左足の足跡は、番号35の左足の足跡が足先部だけの特異な足跡であるので、その踏み替え足跡である可能性もあるが、いずれにしても、二個の足跡は左足の足跡であり、かつ、前記のように、つま先を概ね南方あるいは東南方に向けて(背が窓の方を向いているような体勢になる。)溝の南側側壁にかかるような位置に存在していたのであるから、右足の足跡は採取されていないものの、二個の左足の足跡が印象される直前の被告人の右足は犬走りの中にあった、すなわち、被告人は少なくとも一回は犬走りの中に入ったと推認しうるのである。

四  倒れていた看板

1  一郎は捜索中看板が倒れていたのに気付いたが、犯人が倒したものといえるかどうかを検討する。

まず、夜の検証で寝室南側敷地から採取された足跡(番号31ないし番号48)のうち、被告人が左足で印象した番号35、36を除くその余の足跡の状況等についてみる。

島根県警察本部鑑識課・員作成の61/11/14付け鑑定結果回答書《検234》等によると、番号31の足跡は、兎谷秀美の足跡一個と印象者不明の足跡数個からなり、番号32の足跡は、小笠原実の足跡二個と印象者不明の足跡一個からなり、番号33の足跡は、服部ノブ子の右の足跡一個であり、番号34の足跡は、一郎の左の足跡一個、服部ノブ子の右の足跡一個、印象者不明の足跡数個からなり、番号37の足跡は、印象者不明の足跡二個からなり、番号38の足跡は、服部隆の左右の足跡各一個からなり、番号39の足跡は、印象者不明の足跡二個からなり、番号40の足跡は、兎谷秀美の右の足跡一個、印象者不明の足跡一個からなり、番号41の足跡は、兎谷秀美の左の足跡一個、印象者不明の足跡数個からなり、番号42の足跡は、野田十四秋の左及び左右の不明の足跡各一個、兎谷秀美の足跡一個、印象者不明の足跡数個からなり、番号43の足跡は兎谷秀美の左右の足跡各一個、印象者不明の足跡数個からなり、番号44の足跡は、一郎の右足跡一個、印象者不明の足跡数個からなり、番号45の足跡は、印象者不明の足跡一個であり、番号46の足跡は、印象者不明の足跡二個からなり、番号47の足跡は、服部ノブ子の右の足跡であり、番号48の足跡は、印象者不明の足跡数個からなっている(印象者不明の足跡は合計で二六個位になるようである。)。

これらの足跡のうち、番号37は倒れた看板のへりにかかり、番号38は看板の下にあり、その余の足跡は寝室南側敷地の看板周辺にあった。また、番号37、番号43ないし番号47の足跡は寝室南側の犬走り上にあった。

判明した印象者は、いずれも被害者の捜索に加わったものであり、その者の印象した足跡は捜索時に印象されたものとみられる。

倒れていた看板の下にあった番号38の服部隆の足跡は、靴裏の紋様はなく革靴(紳士用短靴)様の足跡であり、番号35、番号36の被告人の足跡の東方、番号35の足跡から約一三〇センチメートル、番号36の足跡から約八五センチメートル離れて、溝の南側側壁の上辺りに存在していた。

なお、右に述べた印象者不明足跡について、これらが、捜索に加わった者の足跡といえるかどうかであるが、検察官は、印象者の判明した足跡がすべて捜索に加わった者の足跡であることからして、これらの足跡も捜索に加わった者が捜索時印象した足跡と認められると主張している。

しかし、寝室南側敷地にあった足跡と、捜索に加わった者から採取した対照用足跡とを比較対照し、寝室南側敷地にあった足跡中から対照用足跡を採取した捜索参加者の足跡とみられるものが発見されたとしても、このことから対照用足跡と相違していて印象者の判明しなかった他の二六個位の足跡が別の捜索参加者の捜索時の足跡であるとすることはできない。既に述べたように、寝室南側敷地に印象されていた足跡は、印象者不明足跡も含め、一六日の降雨以降に印象されたものと認められるのであるが、一六日降雨以降に寝室南側敷地に入った者としては犯人も考えられるのであるから、誰が本件事件の犯人か分からないうちは、印象者不明足跡のすべてが捜索参加者の足跡とはにわかにはいえないのである。

2  右に述べた足跡の状況等を前提にして検討を続ける。

一郎は、倒れている看板に気付いたが、事件当夜は特に強い風が吹いていたわけではないから、右看板が捜索開始前から倒れていたのであれば、被告人が犯人かどうかは別として犯人が看板を倒したものと認めてよいであろう。

ところで、右に述べたように、倒れた看板の下には、服部隆が捜索時印象させた番号38の足跡があった。

なぜ、看板下に服部隆の足跡が印象されていたのであろうか。

番号38の足跡を印象させた本人である服部隆は、63/6/28施行の期日外尋問で、この点について尋ねられたが、小笠原実の妻タミエの連絡により、妻ノブ子と甲野ドライブインに行き被害者捜索に当たったことの記憶は残していたものの、それ以外の記憶はほとんどといってよいほど失っており、自分の足跡が看板下にあることの理由は全く説明ができなかった。そして同人については、事件当時の供述調書も存在しない(同人は、当時、捜査官から事情聴取すら受けていない。捜査上の重大な手落ちというべきである。)。

看板下に服部隆の足跡がある理由としては、次のようなことも想定される。

捜査開始時には看板は立て掛けてあったが、服部隆が番号38の足跡を印象させた後、服部隆を含む捜査参加者の誰か(一郎の8/18付け員面《検12》、夏子の7/20付け員面(五枚綴りのもの)《検17》、渡の8/18付け員面《検25》、員八幡垣満作成の運動靴領置状況報告書《検39》、八幡垣満の四一回ないし四三回証言等によれば、一郎、夏子、三郎、渡、高山直樹巡査は除いてよいであろう。)が看板の陰になっている部分を捜すなどした際に看板を倒した(この看板は素人の一郎らが作ったもので骨組が簡易であり角の付近を持って垂直方向に立てていくと看板のしなりで容易に反対側に倒れてしまう。なお、不注意等で看板を倒してしまった場合に、捜索者ならば元どおりに立て掛けるであろうが、犯人ならばそのまま放置しておくであろうとはいえない。)。この場合、一郎はその後看板の倒れているのに気付いたということになる。

そして、右に想定した事態は、それ自体としては、そこそこの現実味を有すると考えられるから、犯人が看板を倒したといえるためには、右のような事態がなかったことが関係証拠上いえなければならない。

右のような事態がなかったかどうか判断するには、一郎の看板の倒れているのを見付けたのはいつごろなのか、服部隆が捜索のため甲野ドライブインに来たのはいつごろなのか、一郎は倒れている看板を見付けた際これを持ち上げ看板下に足跡のあることに気付いたが、一郎の見た足跡はどの辺りにあったのか、一郎は看板下のどの範囲を見たのか等をみていく必要がある。

3  一郎はいつごろ看板の倒れているのに気付いたのであろうか。

一郎は、五五回公判で、看板が倒れているのに気付いたのは三郎のところに協力を求めに行く前夏子と捜していたときなのかとの問いに対して、「そのときだと思います。」と証言し、右公判の次に実施された期日外尋問でも同趣旨の証言をしている(62/7/13施行一郎期日外証言)。

そこで、事件当時の一郎の供述をみると、7/20付け員面《検10》では、午前一時一五分ころ被害者がいないのに気付き、三郎に協力を求め、甲野に戻って来た後被告人をガソリンスタンドで発見した、午前一時三〇分ころだと思うと供述しているが、看板については言及しておらず(7/17付け員面《検9》でも看板については言及していない。)、8/18付け員面《検12》では、看板が倒れていたことを見付けたことに言及しているが、午前二時ころというだけで、他の出来事との前後関係は全く述べられていない。

もっとも、7/20付け員面では、一郎は、家の中を捜しても見付からなかったので、住居部玄関から出て、家の回りや車(住居部玄関から西側に停めてあった夏子の使用している茶色のボンゴ車)の中を捜したがいなかったので、三郎のところに協力を求めに行った旨供述しており、住居部玄関の中から見て、ボンゴ車は右手に、看枚は左手にあったのであるが、住居部玄関の左手側も捜した可能性は(そのとき看板が倒れていたかどうかは別として)かなり高いというべきである。

また、7/20付け員面の、被告人をガソリンスタンドで発見したという「午前一時三〇分ころ」との供述や、8/18付け員面の、看板が倒れていたのに気付いたという「午前二時ころ」との供述は、時間に関して相当程度の幅をもった供述とみるべきであろう。

しかしながら、一郎の公判及び期日外での証言をみると、同人は具体的記憶を喚起できないまま述べている部分もあって、一つ一つの出来事そのものの記憶はともかく、ある事とある事との前後関係は必ずしも正確に再現することが困難な状態になっており(このことは証言時まで事件後六年近く経っていた以上まことにやむをえないものがある。)、とりわけ、ふたつの出来事が時間的にそう離れずに生起していればなおさらであって、一郎が前記のように「三郎のところに行く前に看板が倒れているのを見付けたと思う。」と供述しても、それだけで直ちに右事実を認定することには躊躇を覚えるうえ、当時の8/18付け員面の「午前二時ころ」との供述も、一郎らが午前一時一五分ころから捜索を開始しており三郎のところには午前一時二〇分ころ協力を求めにいっていること、一郎は被告人を発見した時刻を「午前一時三〇分ころ」と述べていることなどを考慮すると、幅のある記述であるとみても、これまた一郎の右公判ないし期日外の証言をそのまま信用することに躊躇を覚えさせるものであるといわざるをえないのである。

そうすると、結局、一郎が倒れている看板を見付けた時刻については、これを公判ないし期日外証言によって認定することはできず、8/18付け員面の表現どおり「午前二時ころ」という漠然とした言い方をするほかはないといわなければならない。

一方、服部隆はいつごろ捜索に来たのであろうか。

服部隆は、前記のとおり具体的な捜索状況についてはほとんど忘却していたが、小笠原タミエから服部方に連絡のあったことは記憶していた。服部隆・ノブ子夫婦も小笠原実・タミエ夫婦も甲野方の親戚であり、三郎の妻政子は親戚に協力を求めるため小笠原方に午前二時一〇分ころ電話連絡したものであり、小笠原実らは午前二時二〇分ころ甲野ドライブインに着いたのであるから、服部隆らも小笠原実らより多少遅れたではあろうがほぼ同じころ甲野ドライブインに着いたものと思われる。

そうすると、服部隆らが甲野ドライブインに着いたのは午前二時をある程度回っていたことになる。

しかしながら、一郎の述べる「午前二時ころ」という時刻については、既に述べたように、相当程度の幅があるとみなければならないところ、この点を考慮すると、服部隆が甲野ドライブインに来た時刻が午前二時二〇分ころないし二〇分すぎころであったとしても、これと8/18付け員面にいう「午前二時ころ」との時間的前後を確定することはできないといわざるをえないのである。

してみると、一郎が倒れている看板を見付けた時刻と服部隆が来た時刻とを確定することによっては、前記したような事態がなかったと認めることはできないのである。

4  次に、一郎が看板を見付けてこれを持ち上げた際番号38の足跡があったのかなかったのかを検討することにより問題の解明を試みることにする。

まず、一郎が倒れている看板に気付いて持ち上げた際どの辺りにどのくらいの足跡を見たのであろうか。

一郎は、五五回公判で、立て掛けようとして看板の南西角付近を持ち上げた際、懐中電灯の光がひょっと当たって足跡が見えたと証言しているところ、その際見た足跡の数については「三つ、四つあったような気がするんですが。」(六二項)、「三個か四個くらいと思いましたね。一つじゃないことは確かです。」(三四四項)など証言し、見た足跡は「番号35、番号36、番号38ぐらいです。」(四一七項)と証言している。

しかし、既に述べたように、一郎は時の経過により記憶の希薄化、曖昧化が進んでいること、足跡を見たのは被害者を一生懸命捜している時の短時間のことであることを考えると、見た足跡の数やその場所について、正確な証言をすること自体がそもそも困難といえる(なお、一郎の当時の供述調書のうち、足跡についての供述のあるのは8/18付け員面だけであるが、右員面も看板の回りに足跡があった旨記載されているだけで、最初に見たときに看板下にあった足跡の数や位置等については何ら触れられていない。)。

そこで、一七日午前四時前ころ、家族の者に指示されて看板下の足跡を見分した員八幡垣満作成の7/17付け運動靴領置状況報告書《検39》を見ると、右見分の際看板下に波線模様の靴跡が二、三個あるのを確認し、長靴よりもむしろ運動靴様のものであると思料したとある。

そして、八幡垣の見た時刻には被告人の運動靴の足跡二個が印象されていたことは明らかであることから、八幡垣の見た二、三個の足跡は、番号35、番号36の足跡を含む二、三個の足跡であるとみることができる。しかし、番号38の足跡は、前記のように靴裏の紋様のないものであるから、右見分の際八幡垣は見ていないと考えられる。

では、一郎が発見時見た足跡も番号35、番号36の足跡を含み、番号38の足跡を含まない二、三個の足跡であったといえるであろうか。

一郎の公判及び期日外における証言によれば、一郎は、八幡垣に看板下の足跡を指示したとの記憶はないようであり、八幡垣は、指示されたところしか見ていない、その場に一郎もいたが夏子に指示を受けたと思う旨証言しているが、夏子は、看板、足跡についての記憶そのものが既になくなっている(夏子の六四回証言及び63/6/28施行期日外証言)。足跡は一郎が発見しているのに、夏子が八幡垣に指示したというのは信じにくく、右一郎及び八幡垣の証言にかかわらず実際は一郎が指示したとみられるが、いずれにしても、八幡垣は、一郎の面前で足跡を指示されたのであり、かつ、同人は、その指示された足跡しか見なかったというのであるから、一郎の発見した足跡と八幡垣の見た足跡とはほぼ同じであったとみられ、したがって、一郎の見た足跡には番号35、番号36は含まれていたであろうが、番号38は一郎証言にかかわらず含まれていなかったものと推定される。

しからば、一郎の足跡発見時、看板下には番号38の足跡はなかったといえることになるのであろうか。

一郎は、深夜いなくなった我が子を捜していたのであって、無論足跡を捜していたものではない。しかも、一郎自身、看板を持ち上げた際、たまたま懐中電灯に光が当たったところに足跡が見えたのでまた看板を倒した状態にした旨証言している。したがって、一郎が看板下全体を注意深く見たとはいえないのであり、番号38の足跡を一郎が見なかったことから、番号38の足跡はなかったと認めることはできないというべきである。

したがって、一郎の足跡発見時における番号38の足跡の存否を確定するというアプローチによっても、問題の解明はできないのである。

5  以上、番号38の服部隆の足跡が印象された後看板が捜索参加者によって倒されその看板を一郎が見たとの事態もそこそこの現実味のある事態として想定されるので、証拠上このような事態の存在の可能性を否定しうるかどうかをいくつかの観点から検討してきたのであるが、その検討結果によれば、一郎が看板を見付けたのが三郎のところに応援を求めに行く前であったということはできず、一郎が看板を見付けたのは「午前二時ころ」というほかないところ、これと服部隆が捜索に来た時刻との前後を確定することはできないうえ、一郎が看板下を見たときに番号38の足跡がなかったともいえないため、結局、右のような事態の存在の可能性を否定することはできないのである。要するに、本件看板下には服部隆の足跡があったのであるが、なぜ看板下に服部隆の足跡があるのか判然とせず、服部隆が番号38の足跡を印象させた跡に看板が倒れたという可能性も否定できないので、本件看板が捜索開始前から倒れていた、つまり犯人がこれを倒したとの事実を認定することができないのである。

五  六個の朱色塗膜片

1  被害者の死体のパジャマ背面の前記した位置に合計六個の朱色塗膜片が付着していたのであるが、それが看板由来のものであるかどうかから検討する。

日立金属株式会社安来工場冶金研究所所長清永欣吾は、島根県警察本部刑事部科学捜査研究所長の昭和五六年八月三日付け鑑定嘱託に基づき、六個の塗膜片(資料一ないし六)、被告人が事件当夜着用していた作業衣上衣袖口付近付着の朱色塗膜片(資料七)、被告人の二五・五EEの運動靴付着の朱色塗膜片(資料八)、三宅一提出にかかる○○塗装店の朱色等の塗料を乾燥して作製した塗膜片(資料九ないし一四)の同種性について鑑定を行い、その結果を8/20付け鑑定書《検147》にとりまとめた。

右鑑定書によると、「資料一ないし六は、外観所見はいずれも針の先で突いたような大きさで朱色塗膜様のものである。微細組織検査では資料同士よく似た無数の微粒状の白点を含む組織を呈している。成分元素としては、いずれからも、アルミニウム、ケイ素、鉛、カルシウム、クロム、バリウムが検出された。各元素の含有量は、アルミニウム〇・四から一・三パーセント、ケイ素で一・七から二・五パーセント、鉛で五九・九から六二・二パーセント、カルシウムで一・二から一・七パーセント、バリウムで一九・〇から二一・五パーセント、クロムで一三・二から一五・〇パーセントと差があるが、有意差は認められない。右のように資料一ないし六は、色調検査、微細組織検査、元素分析の結果、いずれも朱色塗膜であり、同種のものと認められる。資料七、八は、色調検査、微細組織検査、元素分析の結果、いずれも赤味朱色の塗膜と認められ、両資料は互いに類似している。資料一ないし六は、資料七、八とは異種のものである。資料九ないし一四は、資料一ないし八とは一致しない。」などとされている(なお、同鑑定書には成分元素とその含有量を示した表が添付されている。)。

さらに、清永は、科学捜査研究所長の八月二四日付け鑑定嘱託に基づき、本件看板の朱色塗膜片(資料一)ほか多数の朱色等の塗膜片(資料二ないし五、一一、一二(以上は、甲野方の物置鉄骨、店舗前立看板、スコップ、ボイラーバルブ、ヘアーセット、ベランダ手すりの朱色等の塗膜片)、資料一四ないし二一(以上は、三宅一の母シメ提出にかかる○○塗装店の朱色等の塗料を乾燥して作製した塗膜片)、資料二二(これは、石橋和子提出にかかる瑞穂楽器の階段手すりの朱色塗膜片)、資料二三(これは、森広直樹提出にかかる森広鉄工の朱色塗料を乾燥して作製した塗膜片)、資料二四の一ないし六(以上は、被告人のバイクに付着していた橙色の塗膜片))、甲野方の色鉛筆(資料六)、甲野方及び三郎方のクレヨン(資料七ないし一〇)、三郎方の絵の具(資料一三)と8/20付け鑑定書資料一ないし八との異同等について鑑定し、その鑑定結果を9/21付け鑑定書《検145》にとりまとめた。

これによると、「資料一の成分元素は、アルミニウム、ケイ素、カルシウム、クロム、バリウム、鉛であり、含有量は、アルミニウム〇・四パーセント、ケイ素一・二パーセント、カルシウム一・八パーセント、クロム一五・〇パーセント、バリウム一九・九パーセント、鉛六一・七パーセントである。資料一は、8/20付け鑑定書資料一ないし六と色調、成分元素の含有量及び微細組織が類似している。8/20付け鑑定書資料一ないし六は、資料一以外の資料とは成分元素または含有量が異なっている。資料二三は、8/20付け鑑定書資料七、八と色調、成分元素の含有量は類似しているが、微細組織が異なっている。8/20付け鑑定書資料七、八は、資料二三以外の資料とは成分元素または含有量が異なっている。」などとされている(同鑑定書にも成分元素と含有量を示した表が添付されている。)。

2  本件では、被害者付着の塗膜片の由来を調べるため、被害者付着の塗膜片及び七月一七日領置していた被告人の作業衣上衣や運動靴付着の塗膜片のほか、その後甲野方、三郎方、○○塗装店、森広鉄工、瑞穂楽器から収集した塗膜片等、被告人のバイクからゼラチン採取した塗膜片などの多数の資料が清永の鑑定に付された。そして、清永は多数の資料につき、色調検査のほか、微細組織検査、元素分析(定性分析及び定量分析)という精密な方法を用いて検査し前記のような鑑定結果を導いているのである。

清永は、被害者付着の塗膜片、本件看板の塗膜片を除き、朱色系統(赤味朱色、朱色、橙色)の塗膜片を一七資料も検査しているが、この一七資料の元素分析、微細組織検査(ただし、これは一部についてのみ実施)の結果を相互に比較すると、次のようなことがいえる。

右一七資料は、被告人の作業衣付着の塗膜片一資料、被告人の運動靴付着の塗膜片一資料、甲野方から採取した塗膜片四資料、三宅塗装店の塗料から作製した塗膜片三資料、瑞穂楽器から採取した塗膜片一資料、森広鉄工の塗料から作製した塗膜片一資料、被告人のバイク付着の塗膜片六資料であるが、このうち、一三資料はそれぞれ他の一六資料と成分元素が違うかしからずとするも含有量が類似していないかしからずとするも微細組織が類似していなかったのである。また、残りの四資料については、被告人の作業衣付着の塗膜片一資料と被告人の運動靴付着の塗膜片一資料とが成分元素が一致し、含有量が類似し、微細組織も類似し、被告人のバイク付着の塗膜片一資料とやはり同じく被告人のバイク付着の塗膜片一資料が成分元素が一致し、含有量が類似していたが(ただし、後二者が微細組織の点で類似し合うか否かは不明)、前二者と後二者とは成分元素から食い違っていたものである。そして、右の類似し合っていた前二者及び後二者のそれぞれの関係をみると、前二者は被告人が森広鉄工当時から作業中着用している作業衣上衣と運動靴であり、後二者は同じバイクに付着していた塗膜片同士であって、各二者同士類似し合って何の不思議もない特殊な関係が存したのである。

このように、被害者付着の六個の朱色塗膜片と本件看板の塗膜片を除くその余の塗膜片をみると、ほとんどが互いに類似せず、類似しあっていたものは相互に特殊な関係が存したのであり、このことは、ある朱色系統の塗膜片と無作為に選んだ朱色系統の塗膜片とを比較した場合双方が類似するということはほとんどないであろうこと、まして、ある朱色系統の塗膜片と朱色系統という制限を外して無作為に選んだ塗膜片とを比較した場合双方が類似するということは稀有であろうことを示しているといってよいのである。

3  このような中で、前記のとおり、被害者のパジャマ背面付着の六個の朱色塗膜片が互いに同種であり、これと本件看板の塗膜片とが類似しているとの鑑定結果が出ているのである(なお、前記したところに照らすと、六個の塗膜片と本件看板の塗膜片とでは、含有量の関係では酷似に近い類似性があるといってよいであろう。)。そして、このことと肉眼観察可能な大きさの塗膜片は右の六個以外には被害者から発見されていず右の六個がすべてであること、本件看板は甲野方寝室南窓前に存したこと、本件看板は事件の五年位前に素人である一郎らが作り、その後二年位は物置に保管されたものの、事件の三年位前からは寝室南窓前に立て掛けられて軒下とはいえ風雨にさらされてきたもので、事件当時塗料が脱落しうる状態にあったと十分考えうること(本件看板は事件後一年余り寝室南窓前に置かれた後三郎が甲野旅館のベランダに六年位保管し、昭和六三年末に三郎から任意提出されているが、その時点では看板の上下辺及び四角付近の塗料は相当脱落していた。)などを併せると、被害者に付着していた六個の朱色塗膜片はいずれも本件看板由来のものであると推認しうるのである。

4  六個の朱色塗膜片が看板から犯人経由で被害者に付着したものか否かについて、検討する。

この塗膜片が付着した時期としては、被害者連れ出し前に既に付着していた、犯行時付着した(犯人が付着させたことになる。)、死体発見後付着した(すがりついた一郎が付着させたことになる。)の三通りが一応考えられる。

まず、最後の可能性から考えてみる。

一郎がうつ伏せになって横たわっていた被害者の死体にすがりついた事実を否定できないことは前記のとおりであるが、「すがりついた」といってもどのような部位にすがりついたのか判然としない。しかし、六個の塗膜片は前記のような位置に付着していたものであるところ、パジャマ上衣背面首付近に付着していた塗膜片とパジャマズボン左右大腿部裏側に付着していた塗膜片とは約五〇センチメートル離れている程度であるから、すがりつくという行動によっては付着しえない位置に六個が散らばって存在していたとはいえない。

問題は、被害者には六個の塗膜片が付着していたのであるが、この数からして一郎付着の可能性があるかどうかである(なお、六個のうちの一部はそれ以前に付着していたかもしれないなどという想定はいかにも非現実的であるから、右の可能性の有無は六個全体との関係で考察すれば足りる。)。

一郎は、一七日午前二時ころ看板を片手で持ち上げている(もう一方の手には懐中電灯があった。)。また、前記のとおり、一郎は忘れているが、午前四時前ころにも八幡垣に足跡を指示するため看板のそばまで近寄っており、そうであれば、その際看板を手で触ったことも考えられる。つまり、可能性も含めると、一郎は午前四時前ころまでに二度看板に手で触ったことになる。なお、一郎が看板に触った際、看板の朱色塗膜部分に接触した手の部分であるが、看板の朱色塗料の塗られている範囲や木枠の厚みなどから考えて指のみと考えてよいであろう。

ところで、一郎が被害者にすがりついたのは午前一〇時ころであり、看板に触ってから少なくとも約六時間も経過した後のことである。

一郎のこの間の行動は不詳であるが、いずれにしてもその約六時間の間に物に触る、物を握る等々、次々と手を使う動作をしていたはずであるからこの動作によって一郎の手に付着した塗膜片は次々と脱落していったものと思われる。したがって、午前一〇時ころの時点で一郎の手に塗膜片が残留していなかったかどうか厳密には分からないが、残留していなかった可能性も相当あるうえ、たとえ塗膜片が残留していたとしても微々たる数で(六時間の時間的経過を考えれば、一〇個も二〇個も残っていたなどとは到底想像できない。)、かつ、それは比較的脱落しにくい場所に付着していたであろうと考えられるのである。そして、一郎はすがりついたといっても、被害者のパジャマズボンの上縁が内側にまくれこんだり、パンツ上縁が外側にまくれこんだりの着衣の乱れが崩れていないことからして、激しくすがりついたわけでもないのである。

しかして、一郎がすがりついた際被害者に六個の塗膜片を付着させえたかどうかであるが、一郎自身が当時塗膜片を手に付着させていたとしても右に述べたように比較的脱落しにくい位置に付着させていたとみられ、しかも一郎は激しくすがりついたわけでないのであるから、そのような状況下で被害者に六個も付着させえたといえるためには六個よりも相当多めの塗膜片が手に付着していたことが肯定されなければならないところ、一郎が付着させていた塗膜片の数は右に述べたように〇であるか微々たるものであったとみられるのであるから、結局、一郎が六個の塗膜片を付着させたものでないと推認することができるのである。

5  そうすると、六個の塗膜片は、犯行時付着したか連れ出し前に付着していたかのいずれかということになる。

そこで、さらに検討を続ける。

犯行時付着の可能性について考えてみる。

既に述べたように、被害者連れ出し当時店内に相当数の人が存在しており、また、寝室内の蛍光灯は点灯していたのであるから、寝室内の様子を窺う等の目的で犯人が寝室南窓に近寄った可能性は相当高く、また、そのような目的で寝室南窓に近寄ったのであれば、その際犯人が窓前に立て掛けられてあった看板に触れ、手などに塗膜片を付着させた可能性も十分あると考えられる。そして、犯人が右のとおり手などに塗膜片を付着させたとすれば、それは犯人が被害者に接触するすぐ前であったのであるから、被害者接触までの間の塗膜片脱落の可能性はあまり考えなくともよいと思われる。さらに、被害者は裸足で連れ出され途中溺水もさせられて死体発見現場まで連れて行かれたのであるから、その間に犯人が被害者を抱きかかえたりしてそのパジャマ背面に触れたであろうことは疑問の余地がない。

これらに照らすと、本件六個の塗膜片が犯人経由で被害者に付着したものであると説明することは容易である。

しかし、犯人が寝室南窓に近寄り看板の塗膜片を手などに付着させて被害者に触れたことが確実とはいえないこと、本件六個の塗膜片の付着位置自体からして犯人以外による付着は考えられないとまではいえないことなどに照らせば、犯人経由であると直ちには断定できない。これが認定できるかどうかは、結局、連れ出し前に六個の塗膜片が付着していたことを否定しうるかどうかにかかっているのである。

6  犯人が被害者を連れ出す前から本件六個の塗膜片が被害者のパジャマに付着していた可能性について考えてみる。

被害者が事件当夜着用していたパジャマが洗濯済みのものでなかった可能性が相当程度あることは、既に述べたとおりである。洗濯済みのものでなかったとすると、いつごろから被害者はこのパジャマを着用していたのであろうか。渡の当夜パジャマを取り替えてやったとの供述は信用できないが、そうであっても渡が一週間とか一〇日も前にあったことを当夜のことと混同したとも思えないこと、当夜は夏でもありパジャマもある程度頻繁に取り替えても不思議でないことを考えれば、事件当夜よりそれほど遡らない日に事件当夜着用のパジャマに取り替えたものと思われる。

したがって、この問題については、事件前一週間内位の間における付着の可能性を検討すれば足りると思われるのであるが、しかし、そうはいっても、これを検討するための資料が不足しているのである。そして、本件六個の塗膜片の淵源である看板が甲野方敷地内、しかも、被害者らが多くの時間を過ごす寝室の窓前にあったのは間違いがないことを考えると、右のような資料不足の状況下においては、前記のように本件六個の塗膜片が犯人経由で付着したと容易に説明しうることを考慮しても、なお右の可能性を否定し去れないのである。

7  以上述べてきたように、被害者のパジャマ背面に付着していた本件六個の朱色塗膜片は、本件看板由来のものであると認めうるが、これが犯人経由で付着した事実は認めることができないのである。もっとも、右のような本件六個の塗膜片が犯人経由で付着したと容易に説明しうることを考えると、そのような経由で付着したことの可能性は相当高いというべきであろう。

六  検討

1  一ないし五でみてきたように、自白を除くその余の証拠によって、〈4〉被告人の左手手首付着のキヅタの葉の裏面の毛が本件犯行時以外の機会に付着したものでないとの事実、〈5〉被告人が一七日午前一時前ころ旧農協ガソリンスタンドに所在しなかったとの事実、〈2〉犯人が本件看板を倒したとの事実、〈3〉看板由来の本件六個の塗膜片が犯人経由で被害者に移着したとの事実は、いずれも認定することができない。なお、右〈4〉、〈5〉の事実については、一、二で述べたところに照らせば、可能性としても高いとまではいえないと考える。また、右〈2〉の事実は、四で述べた証拠状況に照らすと、五で述べた点を考慮しても可能性が相当高いとまではいいにくいと考えられる。右〈3〉の事実については、可能性としては相当高いといえること既に述べたとおりである。

一ないし五の検討で、唯一立証された事実は、〈1〉被告人が番号35、番号36の足跡を一六日午後一一時三〇分ころ甲野ドライブインを出て以降被害者連れ出し可能時間内に印象させた事実である。

そこで、この足跡印象事実を基礎において、この事実から、被告人の犯人性についてどこまでのことがいえるかを検討していくこととする。

2  犯人は一六日午後一〇時ころから一七日午前〇時四〇分ころまでの間に寝室で就寝中の被害者を連れ出したのであり、その際寝室内の様子を窺う等の目的で寝室南窓前の犬走りに立ち入った可能性が相当高いのである。

一方、被告人は、一六日午後一一時三〇分ころ甲野ドライブインの店舗玄関から一人で外に出、午前〇時四〇分ころまでの間に寝室南側敷地に行って番号35、番号36の足跡を印象したものであり、かつ、この足跡の位置、方向からして、南窓下の犬走りに入ったことを推認しうるのである。

このように、被告人は犯人が被害者を連れ出した時間帯に被害者の就寝した寝室の至近に近付いたのであり、しかも、被告人が近付いた場所は犯人が被害者連れ出しのため立ち入った可能性の大きい場所でもあるのである。

そして、被告人の立ち入った寝室南窓前の犬走りや溝のそば付近は建物正面からみると住居部玄関の陰に位置し、店の客も含めあまり他人の立ち入る場所とは思われないのである。しかも、被告人がよくバイクを置いていた下酒屋も被告人の自宅も甲野ドライブインの南西方向にあり、被告人は通常店を出て体育館の裏の小道を通って帰っていたというのであって、寝室南側敷地はこの帰り道とは反対方向にあったのである。また、被告人は店から帰るとき立ち小便は右小道でしていたというのであり、立ち小便をするためにわざわざ寝室南側敷地まで行ったものとも思えないのである。さらに、関係証拠によるも、被告人が当夜寝室南側敷地まで行くことを理由付ける具体的な用があったとは窺えないのである。

これらのことは、被告人が被害者連れ出しのために寝室南側敷地に行き犬走りに立ち入ったのではないか、すなわち、被告人が本件犯人であるのではないかとの疑いをかなり強く感じさせるものといえる。

3  しからば、右記事情から、被告人を犯人と認めうるであろうか。

なるほど、犬走りや溝の付近は、住居部玄関の陰になり店の客でもあまり立ち入るところではないとは思われる。しかし、同所も甲野ドライブインの敷地内であり、しかも柵などで仕切られていたわけでもないのであるから、酔った客がこの付近に行くことがほとんど想定されないという程の場所でもないと考えられる。

また、寝室南側敷地は被告人の帰り道とは反対方向にあるが、被告人は当夜そのまま帰ったわけではなく、甲野ドライブインの南隣の旧農協ガソリンスタンド内にいるところを発見されているのである。被告人は酔うと道端などいたる所で寝る性癖の持主であるが、当夜は右のとおり旧農協ガソリンスタンド内で発見されているのであって、このことから考えると、被告人が犯行とは関係なく寝室南側の犬走りや溝付近を含む甲野ドライブインの南側敷地をうろついたうえで旧農協ガソリンスタンドに入って寝たということもなかったとは断じにくいと思われるのである。

さらに、被告人は犯人が被害者を連れ出した時間帯に寝室に近付いているのであるから、右時間帯は午後一〇時ころから午前〇時四〇分ころまでの約二時間四〇分であり、この時間の幅は被告人に疑いをかけるには十分な短さといえるが、反面、被告人以外の犯人の存在を許しうる長さでもあるのである(なお、犯人が看板を倒したといえれば、犯人は南窓に近付いたといえるとともに被告人の番号35、番号36の足跡との関係で犯人が被害者を連れ出した時間帯は被告人が店を出た以降といえることになるであろうが、犯人が看板を倒した事実が立証されていないこと、また、その可能性が相当高いともいえないこと前記のとおりである。)。

また、寝室南側敷地には、既に述べたように、被告人の足跡のみが印象されていたのではなく、犬走りも含め、一六日夕方の二回目の夕立以降に印象された多くの印象者不明足跡も存在したのであり、この中に犯人の足跡がないとも限らないのである。

これらに照らすと、前記事情は被告人が被害者を連れ出した本件犯人ではないかとの疑いをかなり感じさせはするものの、いまだ被告人を犯人として名指ししてはいないというべきである。

そして、この点は、一ないし五の検討結果を併せ考えても同様というべきである。

七  その他の情況証拠等

1  被告人提出パンツについて

検察官は論告では特に指摘していないが、被告人が七月一八日午前一時〇五分に任意提出したパンツ(符16)については、「前二重布部分に淡黄色汚斑があり、この汚斑部は尿と微量の精液の混合汚斑と思われるが、顕微鏡検査をするも精子発見に至らなかった。」との鑑定結果が出ているところ、この鑑定結果は、本件が強姦目的で行われていることからして、被告人が犯人であることを疑わしめるような一つの事情ではある。

しかし、右パンツは、既に述べたところからすると、一五日の入浴後から右任意提出まではいていたものということになるところ、被告人は当時三八歳の禁欲状態にあった独身男子であり、しかも、検出された精液はSMテストの結果から極めて希薄なものとみられ、かつ、精子の存在も認められないようなものであったのであるから、これが付着したについては種々のことが考えられるのであり(なお、被告人の生殖器関係の医学的資料は存在しない。)、したがって、叙上の検討結果を踏まえても、右事実から、被告人を犯人と推断するのは危険であるし、また推断するには至らないというべきである。なお、この点及び次の点は、自白の信用性の判断の中でも今一度触れる。

2  被告人の爪について

この点も検察官は論告で指摘していないが、被告人が一七日午後一時四〇分任意提出した爪については、「ロイコマラカイトグリーン試液による血痕予備検査の結果右人指し指、右中指、右薬指の爪から、点状または帯状に陽性反応が得られ、血痕付着が疑われたが、人血であるか等の検査は微量のためできなかった。」との鑑定結果が出ているところ、既に述べたように被害者の陰部には出血があって犯人の手指によるいたずらも考えられるのであるから、右鑑定結果も被告人が犯人であることを推測させるもののようにみえる。

しかし、被告人の公判供述によれば、当時はぶよの出る時期でもあり、よくぶよに刺されその跡が痒くて掻いていたというのであり、また、被告人は事件当夜酒を飲んだ状態で野外で相当長い間過ごしていたものであって蚊などに刺されるようなことが十分ありえたと考えられるから、叙上の検討結果に、右の血痕付着の疑いを加味しても、被告人を犯人と認めることはできないというべきである。

3  犯人像と捜査状況について

被告人が前記の犯人像に合致する人物であることは明らかであり、この犯人像に合致する人物が無制限にはいないことは確かである。また、詳細は必ずしも明瞭でないが、一七日以降、多数の警察官を動員して、甲野ドライブインの家族、従業員、事件当夜の飲酒客に対する事情聴取、大字井原地区中甲野ドライブインを中心とする一一部落の全世帯、邑智郡内の交通機関に対する聞き込み等の捜査を実施したが、被告人以外の不審者が具体的に浮かばなかったことも間違いがない。

しかし、犯人像に合致する人物は無制限でないにしても、これが何人いるかも明らかでなく、もとよりその人物が一人残らず具体的に特定されているわけでもない。そして、本件の捜査も、まず犯人像に合致する人物を全員拾いあげ、その中から犯人でないことが分かった者を消去していくという方法をとったものでもない。しかも、本件は深夜の事件であるから、犯人が付近住民などに確実に目撃されているものとはいえないし、犯人であれば人に目撃されないように行動することは十分考えられる。したがって、前記のような聞き込み等の捜査によって被告人以外の不審者が具体的に浮かばなかったにしても、そのことにあまり特別の価値を付与すべきものとは思えないのであり、結局、右事実を考慮に入れてもいまだ被告人を犯人とするには至らないというべきである。

4  被告人の一七日朝の言動について

被告人は一七日朝午前五時三〇分ころ自宅を出て被害者捜索に参加し、また、午前一〇時ころ、被害者が発見された旨の放送を聞いて、秋子に「やっちゃおらんからな。」と言っている。

検察官は、被害者の捜索に参加したことにつき、被告人は甲野方から相当離れた樋口谷部落に住み、特段の縁故関係もないのに、その日の勤務を休んで捜索に加わっており、まことに不自然かつ不審な行動であり、この行動は、真犯人が自己の犯行の発覚を恐れ、捜査状況を知りたがり、捜査の目を自分から遠ざける行為としてとらえるとよく理解しうるとし、また、秋子に前記のように言ったことにつき、放送は、単に被害者発見を報ずるものであり、死体発見を報ずるものでないのに、右のように口走ったのは、既に被害者が死亡していたことを知っていたといわざるをえないとしている。

しかし、まず、後者の点からみると、被告人の「やっちゃおらんからな。」との言辞は、それ自体としては被害者行方不明の件に関して自分は無関係であるという趣旨以上のものを含んでいるとは直ちにいえないところ、一七日朝は被害者行方不明の件で警察官が都合三回も被告人方を訪ねるという異例のことがあったのであり、しかも警察官が被告人から事情聴取をしたり、被告人の靴を持って行くなどのこともあったのであるから、このような同日早朝からの経過を考えると、右放送を聞いた被告人が、秋子に対し、右のような言辞を発したとしても、格別不自然とまではいいがたいのであって、右言辞のあったことをもって、被告人が被害者の死亡を知っていた証左であるとすることはできないというべきである。

次に、前者の点についてみるに、被告人方は甲野方と相当離れているといっても一キロメートルも離れておらず、被告人は甲野方とは特別な縁故関係はないにしても同店に足繁く通っていた常連客ではあったのである。また、被告人は、被害者捜索中の夏子らに午前二時前ころ旧農協ガソリンスタンドで発見され、その際被害者の行方不明事実を聞かされ、また、午前五時ころには寝ているところを起こされて警察官から被害者の行方不明の件で事情聴取を受け、かつ、その際「みんな捜索に出ている。」とも聞かされているのである。さらに、被告人は右事情聴取の際、警察官に運動靴を手にとられ、その裏の紋様を確認され、ステテコの破れにも注目されたのであり、自分が警察官にある程度疑いの目で見られたことも感じ取ったものである。このような状況に鑑みると、被告人が仕事を休んで被害者捜索に参加する気になったとしても直ちにまことに不自然かつ不審な行動とまではいえないのであって、右行動は被告人が犯人であることと矛盾しないといえるかもしれないが、被告人が犯人であることを積極的に指し示しているとまではいえないというべきである。

5  第一回公判供述における被告人の罪状認否について

被告人は、第一回公判の罪状認否において、前記のような特異な供述をした。

検察官は、これをもって被告人が犯行関与を認めた旨主張しているが、そのように受け取ることはできない。

しかし、右供述は、その内容自体判然としないのであるが、断定的な否認供述でなく、犯人であることを匂わせるかのような、被告人にとって不利益な供述であることは間違いない。

ところで、被告人はなぜこのような認否をしたのであろうか。

被告人は、この点について、時折、犯行時とは別機会に被害者を抱いたことがあり、そのことを答えたかのような弁解をしている。

しかし、強姦致傷、殺人で起訴されたその第一回公判で公訴事実を読み上げられたのちこれに対する認否を求められたのに別機会のことを返答したというのは極めて考えにくい事態というべきである。

そうすると、なぜ被告人が前記のような供述をしたのかが疑問として残るのであるが、しかし、そうはいっても、右は第一回公判における簡略な供述であり、その内容自体も判然とせず、しかも、結局ははっきりしないと述べているのであるから、これをもって有罪認定の有力な資料とみることはできないのであって、この供述を考慮に入れても被告人を犯人と断ずることはできないというべきである。

八  まとめ

以上、被告人の捜査段階における自白を除くその余の証拠によって、被告人を犯行と結び付けうるかどうかを子細に検討してきたのであるが、被告人の残した足跡は被告人が犯人である疑いをかなり感じさせるものではあるもののいまだ決め手として十分なものとはいえず、さらに、これと他の検討結果を総合しても被告人の犯人性について嫌疑の域を越え証明がなされたとまではいえないと考えられるから、検察官主張のように被告人の自白を除いても被告人を犯人と断じうるとすることはできない。

第四  被告人の捜査段階における自白の信用性

次に、被告人の捜査段階における自白調書の信用性について検討をすることとするが、その前に、弁護人が自白調書の任意性についても争う姿勢を一応示しているので、この点について簡単に判断を示しておくことにする。

弁護人の任意性に関する主張は、要するに、被告人は七月一七日午前一一時ころ川本署に任意同行されてから一八日午前二時緊急逮捕されるまでの約一五時間事実上身柄を拘束されており、また緊急逮捕時まで約三八時間も被告人は食事をとっていなかったのであり、しかも、小笠原義治は、取調べのとき水を与えると心が落ち着いてしまうので被告人に水を与えなかった旨証言しているのであって、これらの点に照らすと、被告人に対する緊急逮捕前の取調べは任意捜査の域を明らかに越えていたものというべく、被告人はこのような違法な取調べの中で強いられて不任意の自白をなしたのであるから、小笠原が一八日午前一時三〇分ころ作成した自白調書《検148》の証拠能力はなく、したがってまた、この任意性のない自白調書が元となってその後次々作成されていった自白調書も任意性がなく証拠能力が否定されるべきであるというのである。

しかし、本件全証拠によるも、7/18付け小笠原調書以下の被告人の捜査段階における自白調書についてその任意性に疑いを差し挾む余地は全く存しない。

すなわち、川本署任意同行から緊急逮捕まで被告人の取調べをしたのは、八幡垣満(午後五時すぎころまで)、小笠原義治(午後五時すぎ以降)の両名であるが、これらの者による暴行、脅迫、利益約束などの事実は全く存しない(翌朝以降の取調べにおいても、捜査官による暴行、脅迫、利益約束などの事実は一切存しない。)。任意同行以後の取調べは、ポリグラフ検査などもはさみつつ一八日午前一時三〇分ないし四〇分ころまでかかり、その後午前二時被告人は殺人罪で緊急逮捕されたのであるが、右のように取調べが深夜に及んだのは、被告人が午後六時四五分ころになってから自供を開始したこと、途中ポリグラフ検査が入ったことなどによるものであって、逮捕の際の時間制限を免れようとの意図のもとに取調べを続けていたことによるものでないことは明白である。また、被告人が取調べを拒否して帰宅しようとしたり、休息させてほしいと申し出た形跡もない。たしかに、被告人は一七日の朝食をとっていない。しかし、川本署では、被告人に対し昼食と夕食の弁当を出しているのにかかわらず、被告人自身が食べられないと言って食べなかったのであり、かつ、被告人は取調べの途中体調が芳しくないなどと申し出た形跡もない。一七日午後一一時ころから一八日午前〇時三〇分ころまでポリグラフ検査が実施されたが、右ポリグラフ検査では、被告人が最終段階で疲労を訴えたことにより検査は中止されている。ポリグラフ検査後小笠原による取調べが再開されたが、その取調べは調書作成を含め一時間程度で終わっており、この間被告人が疲労を訴えた形跡はなく、調書をみても一部否認供述もしている。なお、小笠原は、被告人が自供する少し前ころ自供しそうな状況であったので、若干様子を見たということがあったと認められるが、これは糧食を差し止めて自白を強要したというような大袈裟なものでなく(現に八幡垣は被告人に水を飲ませていたし、その後取調べをした小笠原も被告人に夕食を提供している。)、かつ、被告人も水を飲ませてもらいたいため自白したとは言っていないのであるから、右の点は被告人の自白の任意性に疑問を投げ掛けるようなものでない。以上のほか、本件事件の重大性なども総合勘案すれば、任意同行から緊急逮捕までの間の取調べが社会通念上任意捜査として許容される限度を逸脱したものではないことは明らかであり、被告人の小笠原に対する7/18付け調書の任意性に疑いを生じさせるようなものは何らないといえるから、右調書の証拠能力はもちろんそれ以降の自白調書の証拠能力もこれを肯定できるのである。

ところで、被告人は、七月一七日小笠原に対し自供して以降本件で起訴された八月八日まで一度も否認に転じていない。しかし、起訴後まもなく面会に来た友人や母親、さらに一回公判前接見に来た弁護人には事件については覚えがないと述べたようである。

被告人の捜査段階における供述調書を作成日付けの順に追うと、左のとおりである(番号1、2の作成者は員小笠原義治、番号3、6ないし10、12ないし18の作成者は員森山順藏、その余の作成者は番号5を除き検田中良である。)。

被告人の自白内容のうち、比較的早期の番号1ないし8(番号2を除く。)を概観すると、左のとおりである。

番号1 7/18付け小笠原調書

ア  被害者連れ出し状況

午後一〇時ころ甲野ドライブインを出ると、玄関先にパジャマ姿の被害者が一人で出ていたので、近付いて手をつかもうとすると、旧国道を北に逃げ、幅一メートル位の小道に走って行った。二、三分追い掛けごっこをした。

(後の自供と全く異なる。)

イ  側溝突き落としの状況

追い掛けごっこをするうち、被害者が転んで泣き出したので、甲野ドライブインと反対側の北の方へ連れて行き、皆原茂生方近くに来ても泣きやまないため、腹が立って思わず被害者の背中を強く押し、道端の側溝にうつ伏せに倒した。

(側溝突き落としの事実自体は後の自供でも一貫しているが、この調書では、突き落とした側溝の位置がはっきりしていない。)

ウ  梅林連れ込み状況

側溝に倒れている被害者の首と腰付近を両手で持ち上げ、約一〇メートル離れた梅林に連れ込んで地面に置いた。

(連れ込んだ梅林としては、生活改善センターの裏の梅林を述べているようである。したがって、本件梅林に至る山道についての言及はない。)

エ  強姦(いたずら)の状況

梅林の中でぐったり仰向けになっている被害者の身体を見て陰部をいたずらしてやろうと思い、パジャマのズボンを下ろして指で触ったが、それ以上のことは覚えていない。強姦はしていないと思う。

(いたずらの犯意発生時期やいたずらの場所と殺害の場所が同一であることが、後の自供と異なる。)

オ  殺害の状況

被害者が生き返って家の人に言い付けると大変だと思い、殺そうと決意し、被害者の首を手かひもで絞めたように思う。場所は皆原茂生方近くの梅林である。

(殺害場所が後の自供と異なる。絞頸の状況が後の自供と較べ不明確である。)

カ  逃走の状況

被害者の身体の力が抜け死んだと思い、甲野ドライブイン南側のガソリンスタンドまで、走ってか歩いてかして逃げ、塀のそばで寝ていた。

(ガソリンスタンドに逃げて寝ていた事実は後の自供でも一貫しているが、ガソリンスタンドに逃げ込んだきっかけについては言及がない。)

番号3 7/18付け森山調書

甲野ドライブインを出て、店の前の道路端で立ち小便をするうち、被害者を連れ出して強姦しようと思った。玄関のところへ行くと、玄関ガラス戸が少し開いており、ガラス戸を開けて中に入ると、被害者がパジャマ姿で子供部屋の前に立っていた。両手で被害者を抱き上げ、すぐ玄関から外に出、店の前を走って通り過ぎた。水路のある小道に入ったとき、重心を失って被害者を小道に下ろしたところ、「痛い。」と言っていきなり泣き出した。

(強姦の犯意発生時期、強姦目的の連れ出しについては後の自供と同じであるが、窓をたたいて連れ出したことについては言及がない。)

ア  側溝突き落としの状況

泣き出した後、被害者を水路に突っ込んだ。

イ  強姦の状況

人のいない草むらのところに連れて行って、声を出させないように手で口をふさいでパジャマズボン、パンティを脱がせて陰部の中に指を突っ込んだりちんぽを入れようとした。

(強姦場所は不明確である。陰茎挿入につき言及されている。)

ウ  殺害の状況

最後には被害者を絞め殺した。

番号4 7/19付け検察官作成弁解録取書

ア  連れ出し状況

午後一〇時四〇分ころ、被害者を強姦しようと思って玄関に回り、中に入り、玄関先にいた被害者を引っ張り出すか抱き上げて外に連れ出し、梅林に連れ込んだ。途中被害者があまり泣くので、溝に突き落としたことがある。

イ  強姦・殺害状況

梅林で被害者の陰部に指や陰茎を入れた。そして、その場で被害者の首を絞めたかどうかはっきりしない。

(強姦場所と殺害場所が同一であることが後の供述と異なる。絞頸状況が不明確である。)

番号5 7/20付け勾留質問調書

ア  犯行全般

被疑事実中「玄関ガラス戸を開け」が最初から開いていた点を除き、その他は読み聞けのとおりである。

(被疑事実は強姦現場と殺害現場が同一である。なお、玄関ガラス戸が開いていたことは、7/18付け森山調書で既に供述している。)

イ  自白の状況

一七日の午前一一時ころ警察に行ったが、すぐ犯行を認めた。

(自白は、任意同行後相当時間が経ってからである。)

番号6 7/20付け森山調書

ア  連れ出し状況

被害者を強姦しようと思い、玄関奥の絨毯を敷いた廊下をズック靴のままで、子供部屋入り口ドア付近まで上がり込み、廊下に出ていた被害者を抱きかかえて外に連れ出した。

(子供部屋入り口ドア付近まで上がり込んだとの点は後の供述と異なる。誘い出しについて言及がない。)

イ  側溝突き落としの状況

小道で被害者を下ろしたはずみで、被害者がひざをつき、「痛い。」と言って泣き出した。すぐまた抱えたが、腕の神経がピリピリしてまた下ろした。被害者が大声で泣くので、腹が立ち、「泣くな。」と言って被害者の背中を右手で突き倒すと、道の右側の水路に倒れ込み、うつ伏せになって顔を水の中に突っ込んでしまった。パジャマズボンの尻のところとパジャマ上衣の首の後ろのところを両手で握って引き上げたところ、被害者はおとなしくなった。

(被害者を下ろした原因等細かい点で後の供述と異なるが、概ね後の供述の基本である。)

ウ  強姦現場に至る経路

被害者を突き落とした場所の二、三メートル先の右側の石垣の間に山の方へ上る道があったので、被害者の首と腰のところをつかんでうつ伏せに吊り上げたまま草むらの中を進み、山に入る坂道を上っていった。途中から右肩に被害者をかついで歩いたが、被害者は小声でしくしく泣いていた。くねくねした急な坂道を上り、右に寄った所にちょっと広くなった平らな場所があったので、ここでやってやろうと思った。

(強姦現場は表現上は確定した。これに伴い同現場に至る経路について初めて言及している。)

エ  強姦の状況

被害者を下ろし仰向けに寝かせ、左手で被害者の口を押え、パジャマのズボン、パンツを下ろし、右手人差し指を陰部に挿入した後、ズボンのチャックを下げて陰茎を出し、左手で口を押えたまま勃起した陰茎を陰部に当てて力を入れて押し込もうとした。あまり入らなかったと思うが、亀頭位が入ったと思う。その後手淫をして付近の草むらに射精した。

(初めて強姦状況についての詳細な供述をした。後の供述の基本である。)

オ  殺害・逃走状況

被害者を帰したら親に話され大変なことになると考えて殺害を決意した。殺害場所を探し被害者を両手で抱きかかえて五、六メートル離れた山道から入った梅の木のある畑に行った。一方の山側が崖かなにかで、他方は下の方に体育館の水銀灯ともう一箇所街灯のあかりのある場所であった。梅の木の近くに、頭を山側に足をあかりの方に向けて被害者を仰向けに寝かせ、被害者の左側、頭の付近に立てひざをついて中腰になり、左手を被害者の首に当てぐっと絞めた。何か絞めるものを捜そうと右手ですぐ横の草むらの中を捜すと、かづらのようなものが見付かり、これを引っ張って取った。その一端を持って右手で二回位巻き付け、両端を持って頭の方にぐいと引っ張って絞めたと思う。被害者は死んだと思われたので、巻き付けたかづらのようなものはかわいそうな気がしてすぐ首から外した。このころであったと思うが、水銀灯のあかりで被害者の顔が青白い顔の何ともいえない顔に見えた。心の底からぞーとした。この顔は今でも浮かんで見える。忘れられません。被害者の顔を見るのが恐ろしくかづらのようなものを外すと同時に顔が見えないようにうつ伏せにした。取り返しのつかないことをしたと思い恐ろしくなって夢中で逃げ被害者を突き落とした水路のある小道に出た。

(殺害現場は確定した。初めて絞頸の具体的状況を供述した。特に凶器につき言及している。また、絞殺したころの被害者の顔色について言及している。)

番号7 7/21付け森山調書(八枚綴りのもの)《検125》

ア  連れ出し状況

午後一一時ころ甲野ドライブインを出、立ち小便をしている時、被害者を強姦しようと決意した。まず、南側の玄関を見ると、玄関ガラス戸が四〇センチメートル位開いていて、廊下には誰もいなかった。寝室南側のガラス戸の所へ行くと、部屋には電灯がついていたが、すりガラスのため中が見えなかった。窓ガラスを開けようと引っ張ったが開かないので、ガラス戸をこんこんこんこんとたたいた。もし被害者が出て来れば連れ出し、二郎だったらやめるつもりだった。玄関を見ていると、パジャマ姿の被害者が部屋から出て来たので、玄関に入り、玄関土間から一メートル位離れた廊下に立っていた被害者を、土足のまま左足を一歩踏み出して黙って抱え、連れ出した。玄関は開け放しで閉めなかった。

(初めて窓をたたいて誘い出したことに言及した。)

イ  側溝突き落とし状況

(7/20付け森山調書と同旨である。なお、不自然に精密な供述がある。)

番号8 7/21付け森山調書(一六枚綴りのもの)《検102》

ア  逃走の状況

水路のある小道まで逃げて来ると国道を走っている自動車のライトに気付き、被害者を捜しているのではないか、見付かったらいかんと思い、走って甲野ドライブインの前を通り、隣のガソリンスタンドに飛び込んでブロック塀の陰に隠れた。自動車が走り去ってブロック塀の陰から甲野ドライブインの様子を窺ううち、水を飲もうとガソリンスタンド内を捜したが水がなく、たばこを吸ったりしていたが、この間三〇分位は過ぎている。そのうちついうとうとと寝入ってしまった。夏子に起こされ「春子を知らないか。」と聞かれたが、「知らない。」と答え、下酒屋に行き、バイクに乗って帰った。

(旧農協ガソリンスタンド内に入った理由、状況につき初めて言及している。)

ところで、七月一八日朝からの被告人に対する警察の取調べは森山順藏警部補が担当したのであるが、森山の取調べと7/18付け、7/20付け各森山調書との関係等について若干問題があるので、ここでこれについて触れておくこととする。

森山は、九回ないし一一回公判において、七月一八日の次に森山が被告人を取り調べたのはあたかも七月二〇日であるかのように受け取れる証言をしている。

しかし、捜査本部日誌(符26)の七月一九日欄を見ると、「被疑者取調一〇時二五分から一二時二〇分森山警部補、一三時〇五分から一九時一〇分森山警部補」とあること、森山が取調べ時使用していた大学ノート(符27)の「乙川一夫取調べ状況」との見出しのあるページ以下の三ページを見ると、被告人の一八日から二七日までの取調べ時間などが一括して記載されているところ、七月一九日については「一〇時二五分から一二時二〇分(検事調べ)、一三時〇五分から一九時一〇分」とあること、一九日の田中検察官の被告人に対する取調べは昼ころには済んでいること、森山ノートの「乙川一夫取調べ状況」との見出しのあるページの前のページを見ると、「七月一八日の調べの際は被疑者はぷりっとして殺したことをいっても涙も出さない状況であった。七月一九日の午後になってようやく涙を浮かべるようになった。」との記載があること、7/21付け森山調書(一六枚綴りのもの)《検102》には「七月一九日の調べの続きについて申し上げます。私は七月一九日の調べで、春子を殺して、そして一生懸命になって逃げ出して最初春子を突き飛ばした水路の付近まで逃げて来たことを申し上げておりますが、云々。」などと記載されていること、森山は七四回ないし七六回公判において、一九日午前は何をしていたか記憶にない、午後は鑑識係が手口原紙、指紋原紙を作る作業等があったようにも思うので、全部自分が時間を使ったかどうかわからないが、被告人の取調べをしたように思う旨証言していることなどに照らすと、一九日の昼ころまではともかく(田中の取調べ等があったとみられる。)、一九日の午後は森山は被告人の取調べをかなりの時間しているものと認めうるのである(なお、森山は七四回公判で一九日かどうかは記憶にないが、一九日から二三日までの間に一度昼間現場に行ったと思う旨証言しており、また、捜査本部日誌の七月一九日の欄には「一三時二〇分から一四時五〇分田中検事現場見分、署長、刑事課長、森山係長、捜査一課長、鑑識課長」との記載もみられる。これからすると、判然としないものの、森山がこの日の昼間現場に行ったことがあったようでもある。しかし、そのようなことがあっても、右に述べたところに照らし、森山が一九日午後被告人を取り調べたことは否定できないと考えられる。)。したがって、森山は一八日から二〇日まで毎日被告人を取り調べたのであり、そのうち調書を作成したのが一八日と二〇日であると認められるのである。

一九日に取調べがあったということになると、その日の取調べの内容が問題となるが、森山は、七四回ないし七六回公判で、一九日の取調べの内容については具体的記憶はないが、身上関係を聞いているのかもしれない旨証言している。しかし、その取調べ時間からして、身上関係についても聞いたのかもしれないが、それだけに止まったものとは到底思えず、前記7/21付け森山調書の記載などを考え併せると、同日は犯行状況についても取調べがなされたものと推定される。したがって、森山は、一八日から二〇日までいずれの日の取調べにおいても被告人から犯行状況を聞いているということになるのである。

ところで、森山の取調べ第一日目である一八日の取調べで被告人はどの程度のことを述べていたのであろうか。

森山は、九回ないし一一回公判で、前記のように述べたうえ、一八日の取調べのとき最初被告人は殺害は認めていたものの反抗的で反省が足りないような態度であったが、説得したところ涙を流し段々と話していった、7/20付け調書の内容は凶器の点を除き既に概ね一八日に供述した、凶器は一八日でなく二〇日に供述した、一八日は送致の準備もあり、調書は側溝突き落とし以後は簡単に書いた、二〇日は一八日に供述したことを再度取り調べつつ調書を取った旨証言し、さらに、七四回ないし七六回公判で、森山ノートの「最初にお断り」と欄外に記載されたページ以下の五ページ(「問題点」と一行目に記載されたページの前のページまで)は一八日に書いたものでこれが一八日の被告人の供述内容である旨証言している。

なるほど、7/18付け森山調書は簡単ながら強姦及び殺害に触れていること、一八日深夜に出来たと思われる送致書記載の住居侵入、強姦致傷、殺人の被疑事実には梅林で手指、陰茎を差し入れるなどの行為をして傷害を負わせ、同所で首を絞めて殺害したと記載されていること、一九日午前一一時五〇分ころ行われた検察官の弁解録取の手続きの中で、被告人は強姦したこと、殺害したことなどを認めていることなどに照らすと、詳細度の点はさておき一八日の取調べで犯行の最後まで取調べがなされたことは間違いないと認められる。

また、本件の事件送致が翌一九日に予定されていたことも間違いないところである。

さらに、森山ノートの「問題点」のページを見ると、〈6〉の次に「かずらを利用して絞めた。」などという凶器に関する記述が出てくるが、この記述は「問題点」のページの他の記述などからして二〇日に書かれたものであることが明らかであるところ、森山が一八日に書いたという「最初にお断り」のページ以下五ページを見ると、三ページ目の「3殺す方法は」の「〈2〉」は「使用した物は、」とあるのみで以下二行が空白となっており、これは、一八日凶器については被告人は供述せず二〇日に供述したとの森山証言を一応裏付けているもののようにもみえる。

また、遠藤謙三刑事課長、森山らは、一九日午後一〇時三〇分から午後一一時〇五分まで、現場の照度検査をしており、その結果を記載した員作成の7/20付け捜査報告書《検34》には「照度は、測定結果のとおりである。被害者を降ろした所、突き倒した溝、畑付近は井原会館の照明灯で明るい。山道に入る所から約二メートルは暗く、右折した所は、照明灯で明るく、強姦したと思われる所は目が慣れないと分からない状況であり、殺害現場は立った状況では付近の木で暗く、被害者を発見した所は井原会館、生活改善センター近くの街路灯の明かりがちょうど照らして明るい状況であった。」などとあるところ、この照度検査のルートは、森山が一八日に書いたという森山ノートの「最初にお断り」以下五ページに記載されているルートと同じと認めうるのである。

これからすると、「最初にお断り」のページ以下の五ページは、森山の言うように、一八日に書かれたもの、つまり被告人の一八日の供述内容が記載されているもののようにも思える。

しかしながら、森山ノートの「最初にお断り」のページ以下の五ページには日付けが振ってないためそれ自体からはいつ記載されたものか分からないうえ、7/18付け森山調書も側溝突き落とし以降が極めて簡略に記載されているため強姦や殺害の状況について森山ノートに記載されたようなことを被告人が当日述べていたのかどうか知る手掛かりを得られないこと、森山は、前記のように一八日の次は二〇日に取り調べたように受け取れる証言をしているものの、一九日にも森山は被告人を取り調べており、かつ、その際犯行状況についても取り調べたとみられること、7/21付け森山調書の記載からすると森山ノートの「最初にお断り」のページ以下の五ページのうち四ページ目の〈9〉以下及び五ページ目は七月二一日に書き継がれたものである可能性が高く、そうであれば、右五ページが番号を振るなどして書かれているとしてもこの五ページが一日で書かれたことを示しているとはいえないこと、森山の証言によれば、被告人が涙を流して話し始めたのが一八日とされているが、これは森山ノートの記載と齟齬していることなどを考えると、前記のような状況が存するにしても、「最初にお断り」のページ以下の五ページのうち、一ページ目はともかく、強姦や殺害についての記述のある二ページ目から四ページ目にかけてが一八日に既に書かれていた、換言すれば、一八日に強姦や殺害に関しノート記述のような供述が確実に被告人から出ていたと断定することはできないといわざるをえないのである(なお、この強姦や殺害に関する記述が遅くとも一九日までに出た供述を書き留めたものであることは、「問題点」のページの記載内容、7/20付け森山調書の記載内容、前記夜間検証の検証内容等に照らし十分推認しうる(ただし、括弧書きなどで付記された部分は二〇日以降の供述を書き留めたものであろう。)。)。

なお、付言するに、森山は、九回公判で、田中検察官の質問に答え、七月二四日の現場引き当たり検証の際、実際には死体発見位置に人形(ひとがた)にかたどったロープが置いてあり、付近に花も供えてあり、かつ、これを被告人に目撃されているのに、あたかも右検証時死体発見位置には何も存しなかったかのような明らかに事実に反する証言をしている(二九〇項ないし二九八項)。検察官は、八回公判で、被告人が人形のロープや供花について言及したのに対し、自らも右検証に立ち会って被告人の述べていることが事実であることを重々知っていたのにこのような事実はなく右供述が被告人の作り話に過ぎないかのように印象づける質問を被告人に対しなしている(被告人の八回供述二〇四項から二一三項の検察官の質問内容参照。なお、田中検察官は、七回公判で、弁護人が、7/18付け小笠原調書、7/18付け森山調書の開示を受けていなかったことが主たる原因となって、被告人に対する森山の取調べは二〇日が最初だと誤解して被告人に対する質問を続けているのに、これを是正させることなく見過ごしている。これが検察官として正しい対応であったかどうかは別として結果的に被告人の弁解を一層分かりづらくしたことは間違いない。)。そして、その次の期日である九回公判で、森山は、前記のような証言をなしたのである。右証言は、右検証時死体発見位置を容易かつ正しく指摘しえたかどうかという相当重要度の高い事項にかかわるものである。このような事項に関し、いわば、検察官と一体となって、森山はあえて事実に反する被告人に不利益な証言をなしているものであって、遺憾といわなければならない。それとともに、このことは同人の証言中に他にも同種の内容のものがあるのではないかとの疑念を抱かせるのであって、先に指摘した点を併せ、同人の証言の信用性を傷付け、同人の証言をなかなか積極的には採用しづらいものにさせているといわなければならない。

以上を前置きとして、以下本論に入る。

一  自白に至る経緯

被告人は、既に述べたように、一七日午後六時四五分ころ、川本署で、小笠原に対し、自供を開始したのであるが、その経緯、状況等から検討する。

1 小笠原証言

(一) 被告人の自供開始当時被告人を取り調べていた小笠原は、被告人取調べの状況について、次のように証言する。

次長の仕事は常務である。一七日は、県警本部への連絡、報道機関対策などの仕事に忙殺されていた。被害者が、死体で発見されたことしか知らなかった。本署に参考人が来ていることは分かっていたが、被告人が来ているということは分からなかった。午後五時にサイレンが鳴ってから、庁舎管理という意味から庁舎内の巡視をし、第一取調室を覗いたら八幡垣と被告人がいた。軽い気持ちで早く協力してもらって早く帰ってもらおうということで八幡垣と交替した。捜査本部には了解を取らず、独断で取調べを始めた。被告人には「ああいう大きな事件があったので、協力してくれ。」「白か黒かはっきりして早く帰って下さい。」と言った。被告人のアリバイ及び不審者の目撃について尋ねた。被告人は「分からん。」を繰り返すので、飲酒量等を尋ね、「そのくらいの量なら忘れることはないでしょう。」と言ったこともある。大事件のため大騒ぎになっていること、家族の心痛などを言い、被告人を説得し続けたところ、午後六時ころには被告人はうつむくばかりであまり「分からん。」を言わなくなった。そのころ、茶と夕食を出したが、被告人は四、五口しか食べず、「胸がつかえて食べられん。」と言った。そこでまた取調べを始めたが、被告人はしょっちゅう水を飲み、うつむいて私の顔を見ないので、「そんなにうつむくばっかりせずに、次長さんの顔を見て話せいや。」と二、三回注意したことがある。こっちを見て物を言えと言っても頭を抱え込んでいた。そして、顔色も変わり、唇も嘗めるし、脂汗も流すし、良心に責められて心が葛藤しているような態度になった。被告人が情報を持っているように思えたので、被告人に「人間には良心があり、毎日毎日良心の責苦に遭い、警察官の姿を見ただけでも自分を捕まえに来たと錯覚して生活することになる。悪はいつまでも栄えない。できたことはちゃんと言わなあかん。」などと繰り返し説得したが、手ごたえがないので、被告人に「これ以上言わん。これ以上しゃべらんから、もし言う気があれば、次長さん、申し訳なかったと言うんだったら言え。」と言った。その後四、五分間沈黙が続いたが、午後六時四五分ころ、被告人は椅子から立ち上がり頭を下げ、「次長さん迷惑かけました。思い出しました。話します。」などと言って犯行関与を認めるに至った。この間、「指紋がある。」「足跡がある。」と言って被告人を追及したことはない。その後、被告人は被害者連れ出しから言葉を選ぶような様子でぽつりぽつり話をし、家の外にいた被害者を連れ出して三角道のような道で追い掛けっこしたことを供述した。犯行現場付近の地理を知らなかったので、昭和五五年ころ発生した甲野ドライブインでの窃盗事件の見取り図を見て供述調書用紙の裏に同店とその前の旧国道を書き、これを利用して取調べをした。午後九時すぎ被告人は小道の横の側溝に被害者を突き倒したことを供述した。そこで、一旦取調べを中断して二階の刑事課に行き、捜査一課長ら捜査員が来ていたので、同人らに地理を尋ねて被告人の供述している小道横に側溝が存在していることを確認した。その際、一課長らから、今入った被害者の解剖結果では被害者の口の中から気泡が出ているということだし、被害者のパジャマも濡れていたので、これらと合致するぞと聞いた。また、一課長からポリグラフ検査要請中なのであまり突っ込んで聞くなと指示された。その後一階の取調室で被告人の取調べを行ったが、側溝に突き倒した状況やそれよりも前の状況についてのみ聞き、午後一〇時ころ取調べを一旦打ち切った。同検査の質問事項の検討の後同検査が行われ、一八日午前〇時三〇分ころまでかかった。同検査終了後被告人の取調べを再開した。被告人は、側溝に突き倒した後の状況について、被害者を抱えて同側溝から梅林に連れていき被害者にいたずらし、発覚を防ぐため手か紐で被害者の首を絞めて殺害したと供述した。供述調書を作成して取調べを終了したのは午前一時三〇分ないし午前一時四〇分であった。なお、梅林の位置については、被告人は最初山に上る道路の左側だと言った。そこで、被告人の書いた地図で「この通り(小道の先の町道)の左側だな。」と言って、客観的には生活改善センターの裏に該る付近(当日被告人から生活改善センターという言葉は一度も聞かなかった。)に鉛筆で丸印をしたところ、被告人が「そこです。」と言った。被告人に「この辺に家があるのか。」と聞いたところ、被告人は「こことこことここに家があります。」と言って丸印をした。家のある方に被害者を連れていくのはおかしいのではないかと言ったら、被告人は「こっちかも分からん。」と言って町道の右側を指しかけたが、「はっきりせんといかんじゃないか。」と言ったところ、「突き倒した側溝から一〇メートル位離れた梅林であることは間違いない。」と言った。そこで、被告人の言うとおり調書に取った。調書の読み聞けをしているとき、側溝の場所の特定がなかったので、被告人に聞いたところ、被告人が皆原茂生方の近くと言ったので、吹き出しという形でそのように挿入した。皆原茂生の名は知らず、被告人が言った。

(二) そこで、右証言の信用性について検討する。

なるほど、小笠原は、昭和五六年三月川本警察署に次長として着任した者でそれまで川本署勤務の経験はなく、本件事件は小笠原の着任後三か月半で発生したのであり、同人が本件現場付近の地理に疎かったであろうことは一応肯認できる。

また、八幡垣の証言中には、小笠原から現場の地図はないかと言われた、小笠原が刑事課に来た際側溝について聞いていた、ポリグラフ検査があるのであまり突っ込んで聞くなと県警本部の者が小笠原に指示したのを聞いたなど、小笠原の証言に沿う部分が存する。

さらに、一七日の午後九時一五分、解剖に立ち会った員佐藤信光から捜査一課長宛なされた電話内容を記録した員帯刀要一作成の7/17付け電話聴取書《検115》には、「死因窒息死。絞頸及び溺死に近い所見が認められる。肺内部に泡沫が多量にあり、水が関係するかもしれない。捜査上配慮する必要あり。」などの記載が存する。

また、研究所技師稲垣徹作成の7/20付けポリグラフ検査実施報告書《検284》、同人作成の57/10/22付け鑑定書《検263》によると、被告人は、一七日午後一一時から一八日午前〇時三〇分まで実施されたポリグラフ検査において、右稲垣に対して「たんぼの回りを二、三回おわえこして回ったが、そのときパジャマを着ていた。」「(春子は)玄関の前の所に立っていた。」「溝に突き落としたところまでは覚えているがそれ以外のことは分からない。」などと返答していることが認められ、これはポリグラフ検査前の取調べは側溝までであったとの小笠原証言を裏付けている。

このように小笠原の前記証言にはこれに沿う証拠もそれなりに存し、また具体性も一応あるのであって、前記証言は一見信用できそうにも見える。

(三) しかしながら、小笠原の証言には、次のような軽々には看過しえない疑問も存する。

(1) 小笠原は、一三回公判で、後方治安に努めており、午後五時ころの時点で事件については、午前一〇時ころ被害者が死体で発見されたということしか知らず、発見場所が梅林であること、被害者の死体の状況などは全く知らなかったかのように証言した。

しかし、員嘉藤増作成の7/17付け電話聴取書《検2》には、「午前一〇時(署長から次長へ)絞殺死体で発見された。午前一〇時三五分(署長から次長へ)発見場所は、自宅から東へ約五〇〇メートル離れた梅の木段々畑の二段目で細ひものようなもので絞殺されている。」などとあり、これによれば、死体発見時、次々捜査本部から川本署の小笠原次長宛に電話連絡が入っており、そのころ当然これらの情報は小笠原に到達したはずとみられる。小笠原は、一四回公判で、右電話聴取書を示されて尋問され、嘉藤から電話聴取書のような具体的な話は聞いていない、絞殺ということは知らなかった、嘉藤は私が無線を傍受していることを知っているのである程度省略して報告したのではないかと思うなどと供述しているが、到底措信できない(同人も、同公判で、結局、右内容を聞いたはずであることを消極的ながら認めた。)。

また、7/17付け鑑定処分許可請求書《検377》には、鑑定嘱託事項欄に、「創傷、絞殺痕と死因との因果関係」などと記載され、犯罪事実欄に「被疑者は、七月一六日午後一〇時ころから七月一七日午前九時五五分頃までの間、甲野春子の首を絞め」などと記載され、7/17付け検証許可請求書二通(川捜第二八号、第二九号)《検378、検379》には、差し押さえるべき物欄にいずれも「本件犯行に供されたと認められる凶器及び紐類」などと記載され、右二通のうち川捜第二八号の方の検証すべき場所欄には「甲野旅館北山中約五〇〇メートル地点の梅畑の死体」などと記載されているが、小笠原はこれら請求書に請求者として署名捺印しているのであって、これらの請求書に記載された内容もその際当然了知したはずと考えられる。なお、同人は、一四回公判で、前記電話聴取書は解剖等の令状請求に使われているので、その日のうちに私の所へ回ってくることは考えられない、令状請求の資料は森山や庶務担当者が作っていたが、その状況の報告は受けていないなどとも証言しているが、右に述べたところに照らし、措信できない。

さらに、八幡垣は、被告人の取調べ中の午後四時三〇分ころ昼休みに現地捜査本部に依頼していた被告人に関する情報が入っているかを聞くために刑事課に行ったが、誰もいなかったので一階の行政室にいた小笠原に尋ねた、しかし小笠原が入っていないというので取調室に戻った旨証言している。この八幡垣の行動は、事件情報も小笠原に伝わる体制のあったことを示唆しているのである。

これらからして、小笠原の事件に関してはほとんど何も知らなかったかのようにいう供述は到底信用できない。そもそも、小笠原は署長が現地捜査本部に出た後においては、本署における責任者であり、それだからこそ、鑑定処分許可請求書等の作成者として署名等をしているのである。もちろん、当日は報道機関等に対する応対等の仕事もあって忙しかったかもしれない。しかし、大規模庁でもない川本署において右のような立場にあった者が事件につきほとんど何も知らなかったというようなことは常識的に考えても信じにくいところであって、小笠原の右証言を単なる忘却で説明できるかどうかは問題である。

(2) 小笠原は庁舎管理の関係から軽い気持ちで八幡垣と交替して被告人の取調べをしたかのように証言している。

しかし、被告人は、本署に任意同行されたいわゆる重要参考人である。そのことは本署にわざわざ任意同行したこと自体からも明らかであるし、それ以前の経緯、それ以後の経緯からも明らかである。このような者が本署で取り調べられているのに、本当に小笠原はその者が被告人であるということを知らなかったのであろうか。また、被告人に関する一切の情報も持っていなかったのであろうか。常識的に信じがたいところである。また、小笠原は独断で取調べを交替したかのようにいうが、重要参考人について捜査本部にも連絡をとらず、そのようなことをすることが一体あるのであろうか。小笠原は午後四時三〇分ころ八幡垣から情報が入っているかどうか尋ねられたのであるが、その際八幡垣の取調べが順調にいっていないことくらいは当然分かったはずであろう。小笠原がまもなく被告人の取調べに入っていること、小笠原が昭和二三年京都府警の警察官になって以来長い捜査経験を有する者であることなどを考えると、むしろその間に捜査本部に連絡し被告人の取調べを指示された可能性が相当強いのである。

そして、これらの点や(1)で述べた点を考え併せると、小笠原の被告人に関する予備知識も全くなく庁舎管理の意味で軽い気持ちで被告人の取調べをしたという証言は到底信用できないのであって、同人は相当の情報と嫌疑を持って被告人の取調べに入ったものであろうと疑われるのである。

(3) 小笠原は、調書読み聞けの際側溝の位置がはっきりしていなかったので、被告人に確認したところ、皆原茂生方の近くと言ったので吹き出しという形で挿入した、自分は皆原茂生の氏名は知らず、被告人のみが知っていたなどと証言する。

しかし、皆原茂生の氏名は、既に小笠原調書の冒頭に出てきているのであり、しかも、同調書の中で例えば野田悟などは野田さとるなどと一部平仮名で書かれているのに、皆原は名まで漢字で正確に記載されているのであって、小笠原の言うような経過で皆原茂生の氏名が出てきたとは思えないし、小笠原が調書作成時皆原茂生の氏名を知らなかったとも考えられないのである。検察官は、警察の利用していた図面には皆原方の所帯主として皆原ツマと記載され、現実に住んでいたのも皆原茂生の母皆原ツマで皆原茂生は住んでいなかったのであるから、小笠原は被告人からしか皆原茂生の氏名を知ることはできなかったというが、一七日昼の検証調書(員作成の7/28付け検証調書《検30》)によれば、捜査員の中に皆原茂生の氏名を知る者がいたことは明らかであって、小笠原は、捜査員から皆原茂生という氏名を聞きえたし、また遅くもポリグラフ検査後の取調べ再開前には聞いていたものと認められるのである。

したがって、小笠原の右証言もそのまま信用することはできないのである(なお、このことは被告人の皆原の氏すら知らなかったという弁解をそのとおり信用するということを意味するものではない。)。

(4) 小笠原は、「被告人は皆原方の付近の上の方には子供のころ行ったことがあると言っていた。被告人は皆原方の付近の上の方に梅林のあることは知っていたと思うが、梅林に行ったことはないと言っていたかどうかは忘れた。」(一三回公判)、「被告人は上の方は子供のころ上がったようにも言っていたが、梅の木はそのころなかったように言っていた。被告人の指示した梅林については前に行ったことがあると言っていたが、それ以外の梅林は行ったことがないと言っていた。殺した場所は初めてのところだと言っていた。」(一四回公判)などと証言している。

しかし、被告人が町道の左側の梅林は行ったことがあり殺した場所は初めてのところだと言ったのであれば、そして、午後九時三〇分ころ捜査員から聞いていた現場と被告人が指示した現場が違うと大体予想した(一四回公判)というのであれば、右供述の重要性に鑑みその趣旨が調書に現れていてしかるべきであるが、なぜこれが現れていないのであろうか。また、小笠原は、町道の右側については被告人が「こっちかも分からん。」と言って指しかけた程度で話が終わったように受け取れる証言もしているが、これと右証言とは果たして整合するのであろうか。また、当時時間に追われた状況にあったというのに、右のような点まで本当に取調べが及んだのであろうか。不自然な証言というべきである。小笠原は、被告人は梅林を山に上る道路ないし道の左側と言った、後から小道の横に山に上る泥棒道のあることを知った、被告人はこの道のことを言っていたのではないかと思う、自分は現場を知らなかったので被告人のいう道路ないし道は小道の突き当たったところにある道のことだと思ってしまい、客観的には生活改善センターの裏付近に該る位置を指して「ここか。」と被告人を誘導してしまったなどと証言し、生活改善センターの裏の梅林を被告人が指示したのは自己の誤導が元になっている旨を強調しているのであるが、これを理由あらしめようとしてあえて右のような不自然な証言をしているとの印象を拭い切れないのである(なお、たとえ、被告人が山に上る道路ないし道の左側の梅林と言ったとしても、それが本件死体発見現場の梅林を指していたものと限られるわけではない。というのは、町道下町沢久谷線は生活改善センターの前から山の斜面を斜めに上っていく舗装道路で生活改善センターの裏の梅林はこの坂道の左側に位置しているのであり、かつ、被告人の公判供述中にもこの道路の向かう北々東方向を山の方と表現したりしている部分があるからである。)。

(5) なお、小笠原は、被告人に対する取調べのときに調書用紙の裏に地図を書かせるなどして説明させた旨証言しているのであるが、その図面をどうしたかにつき、一四回公判では、森山には引き継がなかった、自分の手控えに残していたけれども現在はもうないと証言していたが、五三回公判では、当日破り捨てた旨証言している。いずれが真実かあるいはいずれも真実でないかはともかく、現実の死体発見現場ではない場所が指示されたりしている図面をその日のうちに廃棄したなどということがあれば捜査官として問題であるし、真実を証言していないとすればこれまた問題である。

このようにみてくると、確かに前記した点はあるけれども、小笠原証言に対しては慎重に対応せざるをえない面も多分に存するのであって、その信用性を安易に肯定することはできない。当裁判所としては、小笠原証言が決してさまつとはいえない事項に関し右のような軽々には看過しえない疑問を内包するものである以上、他にも疑問を伏在させていないとはいえない信用性に問題のある供述としてこれを扱っていくほかないと考える。

2 自白に至る経緯の検討

1に述べた点を踏まえて、被告人の自白に至るまでの経緯、状況を検討するに、被告人に対しては、一七日朝自宅(五分ないし一〇分位)及び井原駐在所(二時間位)で二度事情聴取をし、運動靴を二足提出させ、被害者発見後は、川本署に任意同行して午前一一時ころから取調べをし、ゼラチン紙で手や足などから微物採取を行い、陰部をガーゼで拭き取らせ、唾液、頭髪、爪などを提出させ、午後三時一〇分ころには自宅の洗濯物を提出させている。これは捜査活動として当然のことをしたまでにすぎないわけであるが、被告人が酔って記憶に空白部分があったとの前提に立つと、被告人には相当の心理的影響を与えうる事柄ではあったと思われる。また、井原駐在所でのみかあるいは本署でもかは確言しにくいけれども、被告人は八幡垣から被告人が履いていた靴の紋様と「家の回り」(八幡垣証言。なお、八幡垣が被告人に類似足跡の存在を指摘する際に確実に「家の回り」と言ったのかそれともこれとは多少違った言い方をしたのかは明確には分からない。)に残っていた足跡の紋様が類似しているとの指摘も受けているのであり、これまた被告人に相当の心理的影響を与えうるものであったと思われる。そして、八幡垣による被告人に対する取調べは午後五時すぎまで続いたのであるが、そこでは八幡垣が思い出して話すように言い、被告人が「分からん。」と言うやりとりが繰り返し繰り返し交わされ、被告人がいくら言っても信用されないという状況が継続してきたのである。なお、この時の状況を述べているのかどうか必ずしも明瞭でないが、被告人は、公判で、川本署へ行ってから警察官に、反省が足らん、思い出せと大分言われたとか、八幡垣に、謝れ、もう気を楽にせいと何度も言われたなどと述べている。川本署任意同行前の事情聴取も含めると、被告人は結局約八時間八幡垣に対し「分からん。」を繰り返してきたことになる。このような経過の後に、八幡垣と交替して小笠原が被告人に対する取調べを始めたのであるが、小笠原は八幡垣よりも年齢も地位も上で、川本署では次長という枢要な役職にあった。被告人は、八幡垣が小笠原を次長さんだと言って紹介したと述べている。午後五時を過ぎて取調官がこのような高い地位にある者に交替したことも、被告人に一定の心理的影響を与ええたものと思われる。被告人は小笠原の取調べにおいても「分からん。」を繰り返したが、これは小笠原の受け入れるところではなかった。被告人は、公判で、小笠原から、「わしも京都で長いこと殺人を扱っているが、お前みたいに嘘言ったらすぐ分かる。」などと言われたと述べている。ところで、小笠原は被告人の「分からん。」という弁解の不自然性を指摘する際に「そのくらいの量なら忘れることはないでしょう。」などと言ったと証言しているが、小笠原がそのような丁寧な言い回しで被告人を説得ないし取り調べていたのかどうかは問題であろう(被告人の公判供述によると、小笠原に水をくださいと言ったら、小笠原は居合わせた八幡垣に「こいつ水やったら水に流す、ちょっと飲ますな。」と言ったという。「こいつ」などという言葉までは使っていないとは思うものの、被告人の置かれていた立場を考えれば、小笠原はそう丁重な言葉づかいをしていたわけでもないと思われる。なお、小笠原は、「水をやると水に流してしまう。」と言ったことはないというが、信じがたい。)。小笠原は、被告人に対しては分からんという弁解の不自然性を指摘し遺族の心情、人の道に触れ説得したのみで、自供するまでの間に被告人以外に犯人はいないではないかなどと被告人に迫ったことは全くない、被告人が遺留足跡と遺留指紋の存在について聞いてきたことはあるが、そんなん知らんぞと答えたにすぎないという。たしかに、次に述べるように、被告人が小笠原から遺留指紋の存在を追及の手段とされたと述べている点は信用できないのであるが、そうであるからといって、直ちに小笠原が外に犯人がいないではないかなどという言辞を用いて追及したことは全くなかったと結論づけることはできない。被告人は「気を楽にせい。」「わしも京都で長いこと殺人を扱っているが、嘘言ったらすぐ分かる。」「水をやると水に流してしまう。」などと言われたと述べるが、これらはその内容からして自供前に実際にあったことが述べられているものとみられる。そうすると、遺留指紋の存在を追及の手段としたと述べる点はさておき、被告人の、小笠原に「お前以外に犯人はいないじゃないか。」などと追及されたとの供述も実際にあったことが述べられているとの見方もできないわけではないし、少なくとも前記のような問題を含む小笠原証言によってはこの見方を否定することはできないというべきである。そして、次に述べるように、小笠原が追及の手段として被告人に被告人の遺留足跡の存在を言ったとの事実も否定しえないのである。なお、小笠原は被告人が自供開始前脂汗をかき唇を嘗めるなどしていたといい、小笠原が水をやるのを一時やめていることからすると、自供開始前に被告人に小笠原の言うような状況ないしそれに類似するような状況のあったことは窺われるが、そのような状況の出現は真犯人にのみ固有のものではないから、被告人が良心の呵責で心が葛藤していた証左であるとは直ちにはいえない。しかして、このような中で、被告人は、午後六時四五分ころ自供を始めたのである。被告人が分からんと言い続けて一〇時間弱経過後である。この時間は真犯人でない者が殺人という重大事件を自供するには短すぎるようにもみえるが、しかし、酔いのため記憶に空白部分があり、かつ、そのため自己の行動を説明できないという特殊状態にあった者という前提で考えれば、右に述べたような経過状況の下では、心理的に追い込まれて自供することもないとはいえないと考えられるのである。

3 被告人の弁解

取り調べられる立場にいた被告人に小笠原の取調べ状況を正確に弁解するように要求することは酷であるという事情もあるので、ポリグラフ検査前後の取調べの進捗状況ほかやや細部にわたると思われる事柄などについての弁解はさておいて、なぜ自供することになったかについての弁解をみていくと、被告人は、「足跡がある、指紋がある、やったのはお前しかおらんだろう、外に誰がやったなどと言われ、頭がこんがらがってどうでもいいわと思って好きなように言った。」(五回公判)、「足跡が証拠に残っていると言われ、覚えがないと言ったが、外に誰がやったかと言われた。酒を飲んでいて全然分からんもんで僕がやったんかなと思って言った。頭の中が何していたので。」(六回公判)、「指紋と足跡がある、お前の外に犯人はいないといわれた。」(七八回公判)などと述べる。

被告人以外に犯人はいないというような追及の仕方を小笠原がしなかったともいえないこと前記のとおりである。

右追及の手段として、被告人の遺留指紋の存在を小笠原が言ったかどうかであるが、検察官はその旨の被告人の弁解は信用できないと主張する。

本件においては、被告人の遺留指紋は小笠原取調べ当時はもちろんその後も一切発見されていない。したがって、どうせ指紋も出てくるという程度の話をしたというのでなく、被告人の言うように小笠原が被告人の遺留指紋があると言って被告人を追及したというのであれば、小笠原は被告人を追及する際偽計を用いたということになる。しかし、小笠原の取調べ当時偽計を用いなければならないほど捜査官側が追い詰められていた状況は特になかったと認められる。また、被告人は前記のように言う一方で、指紋の話はその日かあくる日に出た(六回公判二九四項)などとも述べているのであって、必ずしも弁解に明確な一貫性があるわけでもない。さらに、小笠原調書を見ても被告人の遺留指紋があることを追及の手段としたことを窺わせる供述も存しないのである。これらに照らすと、小笠原が遺留指紋の存在を被告人追及の手段としたことはなかったとみられるのであって、その旨の被告人の弁解は信用できないのである。もっとも、どのような脈絡で出たのかは断じえぬが、小笠原の証言も併せると、小笠原の取調べの中で、指紋という言葉が両者の間に出たこと自体は間違いがないとみられる。そうすると、被告人が犯人でなくとも少しでも自己が犯人でないことを主張しようとして、小笠原の取調べの中で出た指紋という言葉をつい弁解の中に取り込んでしまったということも相応の可能性をもった事態として想定されるところであるから、遺留指紋を追及の手段としたとの部分が信用できなくとも直ちに被告人が犯人だとはいえないのである。

被告人の弁解中、被告人追及の手段として被告人の遺留足跡のあることを小笠原が言ったとの点であるが、検察官はこの点も信用できないと主張する。

被告人質問において、被告人は取調官から足跡についていろいろ追及を受けた旨供述しているが、取調官からどのようなことを言われたのか、言った取調官は八幡垣、小笠原、森山のうちの誰なのか、いつ言ったのかなどが必ずしも具体的に特定されずに、やや漠然とした形で質問が重ねられている面があるため、その供述内容は心証の取りにくいものになっている。

被告人の自白の契機としての遺留足跡についての供述を拾ってみる。

自供前という形で供述しているところをみるに、五回公判では「足跡を言われた。」、六回公判では「玄関のところに足跡がある。」、八回公判では「玄関の方に付いている。」(七一項)、一七回公判では「足跡がある。」、二〇回公判では「足跡がある。場所は言われていない。」、二一回公判では「おまえのがあった。どことは言われていない。」などである。

右のように被告人は、審理当初から、遺留足跡を言われて追及された旨供述し続けてきているのであるが、これは検察官のいうように罪責回避のための虚構であろうか。しかし、証拠を精査するもそうと断じうるだけの根拠は結局見出すことができない。検察官は、被告人は八回公判までは遺留足跡について玄関の方にあるなどと小笠原に言われたと述べていたのに、一七回公判以降は遺留足跡の遺留場所については小笠原から言われていないと述べるようになり、供述内容に重大な変遷があり、措信できないという。なるほど、八回公判までの供述と一七回公判以後の供述とでは検察官指摘の違いが存する。そして、この変遷は、八回公判で、被告人が小笠原の取調べ時被害者が店の横で遊んでいたのを発見して店の前の方へ呼んだと自供したと述べたことにつき、検察官がそれでは小笠原から言われたという遺留足跡の場所と合わないではないかと指摘したことがおそらくは契機となって生じたものであろうことも推測できる。しかし、小笠原調書を見ると、「春子は玄関の側におり、私が玄関に近付き春子の手をつかみかけると云々。」と記載されており、被告人は玄関付近まで行ったことになっているのであって、このことを考えると、右のような変遷のあることに重大な意味をもたせるのは相当でないというべきである。

さらに、被告人が酒に酔って記憶のない間に殺人をしたのかなという気になって自供したと弁解する点について、検察官は、それ自体があまりにも不合理な弁解であって、到底信用できないと主張する。

なるほど、酔って記憶のない間に殺人をした気になったというのはそれだけを取り上げるとたしかに理解しにくいものも感じないわけではない。しかし、被告人はそれだけを弁解しているのではなく、分からんといくら繰り返しても聞いてもらえなかった、お前の外に犯人がいるかなどと言われた、頭がこんがらがりどうでもいいわと思った、頭の中が何していた、頭の中が動転していたなどということも併せ弁解しているのである。したがって、殺人した気になったというのは、覚えていないとの弁解を聞いてもらえず心理的に追い込まれて自供に至った被告人の心情のすべてを説明するものでないと理解しうるし、また、そのようなものとして理解すれば全く了解不可能なものとはいまだ断じえないというべきである。

4 まとめ

被告人は、任意取調べ一〇時間弱で自供を開始した。本件が殺人事件という重大事件であること、被告人は起訴前一度も否認に転じていないことも考えると、被告人は犯行について記憶があったが故に小笠原に対し自供を始めたのではないかとも疑われる。しかし、被告人自供開始時の取調官であった小笠原の供述には信用性に問題があって、自供開始前の取調べ状況につき被告人の弁解を入れる余地があり、その弁解を前提とすると、被告人は犯行について記憶のないまま心理的に追い込まれて自供を始めたとの可能性もいまだ否定し去ることはできないのである。

そして、右に照らすと、本件における自白に至る経緯が、以下に詳述する種々問題のある本件自白の信用性を確実に支えるものであるとまではいうことができないのである。

二  秘密の暴露の主張について

検察官は、被告人の自白調書中には、秘密の暴露を含む犯人でなければ供述できない信用性の高い供述部分が存するとし、秘密の暴露に当たるものとして、死体発見現場への体育館北側の水銀灯2の光の射入事実についての暴露と被害者の水の吸引事実についての暴露とを挙げる。以下、後者から検討する。

1 水の吸引

検察官は、被告人は小笠原に対して「側溝の中にうつ伏せに倒した。」などと被害者の水の吸引を供述しているが、捜査官は被害者の死体の状況を見分しただけでは被害者が水を吸引していることは到底想定しえなかったものであるなどとして、右供述は秘密の暴露に当たると主張する。

(一) まず、小笠原調書の該当部分を見るに、「しくしくと泣きやまないので私も頭に来て思わず春子の背中を強く押し、道端にある側溝に倒しました。春子は側溝にうつ伏せに倒れましたが、倒れてから声を立てて泣いていました。……溝に倒れている春子の首筋と腰の付近を持ち上げ約一〇メートル位離れた梅の木の林の中に連れ込み地面に置きました。そのとき春子はぐったりしており……」などと記載されている。

この供述自体、泣き止まない子供を黙らせるために背中を強く押したりするものかどうか(さらに泣かれるおそれがある。)、側溝の中でも声を立てて泣いていた被害者がなぜ林の中ではぐったりしていたのかなど疑問なしとしないし、また倒した側溝の場所もどこかはっきりしないという問題があるのであるが(小笠原が取調べ時被告人に書き込みをさせたりしたという図面があれば、被告人の指示した側溝を知る手だてになったかもしれないが、それも存在しない。)、それはさておくとしても、被害者は梅の木の林の中ではぐったりしていたとなっているが、側溝の中では声を立てて泣いていたともあるし、右供述が水の吸引事実まで述べているものとはいいがたいのである。のみならず、小笠原は遅くも被害者の水の吸引事実を午後九時三〇分ころ二階の刑事課の部屋に行った際には知ったものといいうるところ、小笠原証言によれば、右時点で被告人の述べていたのは被害者を側溝に倒したところまでであるというのであるから、この時点を基準時にとれば、被告人が水の吸引事実を供述していなかったことは明らかである。

(二) しかしながら、小笠原は右のとおり二階の刑事課の部屋に行く前に被告人が側溝に被害者を倒したことを供述したと述べているところ、このこと自体はポリグラフ検査における被告人の応答内容や県警本部の者がポリグラフ検査があるのであまり突っ込んで聞くなと小笠原に指示したのを聞いた旨の八幡垣証言等に照らし間違いないところと考えられる。そうすると、被告人は午後九時三〇分ころの時点で水の吸引事実は述べていなかったけれども水との接触事実は述べていたことになる。

そこで、この水との接触事実の供述が秘密の暴露にあたるかどうかという観点からさらに検討を進めることにする。

小笠原は被告人が午後九時すぎころ側溝に倒したことを供述したという。そこで、この時点までに、右接触事実を小笠原が知りえたかどうかであるが、被害者と水との接触は、昼の検証調書《検30》に、パジャマは上下とも前面が湿っていたなどと記載されており、捜査員はその旨知っていたし、また当然のことながらそれが意味ある事柄であることは認識していたと考えられる。そして、死体に関する見分は司法解剖するためもあり、昼の検証の中でも早いうちになされたものとみられる(なお、付言すると、パジャマの濡れている事実は、検証開始後分かったものでなく、開始前から分かっていたことである。)。

そうすると、被害者のパジャマ上下前面が湿っていたとの事実は、小笠原が被告人の取調べに入る前から既に小笠原において接しうる情報であったのであり、被告人が水との接触事実を述べる前に既に小笠原がこれを知っていた可能性もないとはいえないのである。

なるほど、本件は現地捜査本部が設置された事件ではある。しかし、捜査本部と本署との間では電話連絡もなされていたのであり、本部本署間の捜査員の往来も当然あったと考えられる。また、小笠原自身が被告人の取調べに入る前に本部と連絡をとった可能性も強いこと先に述べたとおりである。なお、小笠原が取調室に入ってからも八幡垣はメッセンジャーボーイのようなことをしていたというのであるから(小笠原証言)、小笠原は外の情報から遮断されていたわけではない。これらに照らすと、現地本部設置事件だからといって、小笠原がパジャマ上下前面が湿っていたことを知らなかったはずであるとすることはできないのである。

小笠原は、午後九時三〇分ころ二階の刑事課に行った際、初めて被害者のパジャマが濡れていたことを聞き知った旨証言する。しかし、前記したような小笠原証言の疑問点を考えると、同人の証言中殊に知っていた情報に関する部分はたやすくは採用しえない面があるのであって、右証言も直ちに信用できるとすることはできないのである。

(三) ところで、被告人は午後六時四五分ころ自供を開始したとみられるが、小笠原は実体にすぐ入ったようである。そして、小笠原が二階に上がったのが午後九時三〇分ころである。そうすると、この間三時間近くの取調べがあったことになるが、なぜ被告人は三時間近くもかけて側溝に突き落としたところまでしか供述しなかったのであろうか。

被告人の供述がスムースに出ていなかったことは間違いない。小笠原は言葉を選びながら供述しているような感じがした旨証言するが、分からなかったためスムースな供述ができなかったとみうる余地もあるといいうる。

(四) 被告人の弁解は、判然としない面があるが、要するに、小笠原から濡れとったと言われ、被害者をたんぼに落としたと供述したが、たんぼでは鼻血は出んと言われ、側溝に倒したことになったというものである。

このうち、被害者をたんぼに落としたと言ったらたんぼでは鼻血は出んと言われたとする点については、このような話まで小笠原の取調べの際に出たのかどうかについては問題がある。しかし、第九回公判調書中の証人森山に対する尋問調書末尾添付の森山が被告人取調べの際に用いた図面(以下「森山図面」ともいう。)を見ると野田方前小道西側の田に長方形のマークがあり、これが何を意味するか判然としないが(森山証人に質問していない。)、このようなマークのあるところをみると、森山の取調べの際右と類似の話が出た可能性もあり(なお、捜査員多数が右小道を通行したと思われるにかかわらず、西側の田に稲の倒伏等の乱れを発見した者がいないことからすると、犯人が被害者をこの田に漬けたようなことはなかったとみられる。)、かつ、被告人はそのときの話を小笠原の取調べのときの話と思って前記のように述べている可能性も存するので、この部分が信用しにくくとも前記弁解全部の信用性が失われることにはならないといわなければならない。

そして、濡れていたと言われたとの弁解は、小笠原の知り得た情報とも合致しているし、被告人は早期から右弁解を一貫して行っているし、小笠原調書も濡れていたに一応合致する内容でもあるのである。そのうえ、後に詳述するように、被告人の側溝に関する供述(小笠原の取調べ以後のものも含む。)には種々不自然な点があり、しかも、被告人が被害者を倒した場所として小笠原に対し述べていたのかもしれない、そして、森山に対しては述べていた野田方前小道脇の側溝では被害者の死体に現に存した客観的状態を生ぜしめることはかなり困難であるとの重大な疑問が生起しているのである(なお、生活改善センター裏の梅林までの間には右側溝と町道に出てその東端に沿って存在する側溝とがあるが、後者の側溝は降雨時以外はほとんど水が流れていない側溝である。したがって、被告人が小笠原に後者の側溝を指示したというのであれば(森山の取調べの冒頭にはここを指示したことは間違いない。)、被告人は水を吸引させられない側溝を指示したということになる。)。これらに照らすと、被告人の前記弁解のすべてをそのまま信用するわけではないが、小笠原に濡れていたと言われたことが契機となって側溝に倒したとの供述がなされた疑いは残るのである。

(五) 以上のとおりであって、被告人は午後九時すぎには側溝に倒したと供述したがこれは秘密の暴露に当たらないし、また、小笠原の言が契機となって記憶にない右事実を述べたとの被告人の弁解もいまだ排斥できないのである。

2 水銀灯2の光

検察官は、森山の一八日取調べ時被告人が「被害者を地面に仰向けにして首を絞めて殺害した際、被害者の顔に体育館の水銀灯の光が当たり、被害者の顔が青白く見えてその顔が忘れられない。」旨供述したので、森山らは一九日夜山の中の死体発見現場に右水銀灯の光が差し込むか否か裏付け捜査したところ、被害者の顔が存在した高さくらいのところだけに右水銀灯の光が差し込むという特異な現場の採光状態が判明するに至った、右の採光状態は捜査官は知りえなかったのであり、右供述は秘密の暴露に当たる旨主張する。そこで検討する。

(一) 被告人は7/20付け森山調書《検124》で、殺害状況に関し先に要約したように述べ、現場の採光状態等についても触れている。しかし、森山らは一九日夜には死体発見現場等の照度検査に赴き、現場の採光状態等を調べていることは明白であるから、翌日録取された右供述を対象に秘密の暴露の有無を判断するのは相当でなく、初発供述を対象として論じなければならない。

(二) 森山は、一八日の取調べの際、被告人は、被害者を仰向けにして手で絞めて殺した時に被害者の顔が水銀灯の光で青白く見えその顔は忘れられないと述べたなどと証言する。しかし、森山ノートには、「水銀灯のあかりでかどうか青白く見えた。」とあり、「水銀灯の光で青白く見えた。」とは記載されていないのであり、これからすると、被告人の供述内容がその趣旨どおり森山の証言に再現されているわけでもないようである。また、一八日の取調べで果たして右のような話にまで及んだのかどうかについても、既に指摘したような問題があって、直ちにそうだとは断じがたい。そうすると、初発供述の内容は被告人の一九日までの供述が記載されていると推認しうる森山ノートの該当部分によってみるほかなく、かつ、初発時期も一九日までとするほかない。

ところで、森山ノートの「最初におことわり」と書かれたページから数えて三ページ目(一行目に「殺意について」と書かれたページ)と四ページ目を見ると、「2その場所は」の〈3〉に「その場所は水銀灯のあかりでよく見えて水銀灯(体育館前)がよく見える位置であった。」とあり、「3殺す方法は」の〈1〉中に「水銀灯を背にした様な位置に自分が中腰になって締めた。」、〈3〉に「女の子の顔は水銀灯のあかりでかどうか青白く見えた。眼はつむっていた。その顔は忘れられない。今でもすぐ目の前にうかぶ。」とある。そうすると、一応、このような供述が一九日までに被告人から出ていたとみられるのである。

(三) そこで、この供述が秘密の暴露といいうるかどうかについて検討する。

まず、現場の客観的状況から検討する。

一九日夜間の照度検査の捜査報告書《検34》によれば、「殺害現場は立った状態では付近の木で暗く、被害者を死体で発見したところは体育館の照明灯、生活改善センター近くの街路灯の明かりがちょうど照らして明るい状態であった。」とされている。

また、被告人は二二回公判において、七月二四日の検証の際、田中検察官とともに死体発見現場の被害者の頭の位置から体育館の水銀灯方向を見たところ、梅の木の葉がその部分だけ空いていて、その穴のようなところに水銀灯が見えた旨供述している。そして、現に右のような状況の存したことは二四日の検証調書《検114》の写真42を見れば明らかである。すなわち、右写真では、右端にゆずの木、すぐ隣になつめの木が生育している。左端には三本目の梅の木があり、枝が大きく右方向に伸びている。右写真によれば、被害者の頭の位置付近から水銀灯の方向を見たとき、これらの木のほかには潅木等は生育していない状態にある。そして、被告人が述べるように、右写真の右方向に伸びている梅の木の枝の葉に隙間があり水銀灯はその隙間から見えているのである。

これらに照らすと、被害者の死体のあった位置付近では、被告人の言う穴の空いたような部分から地面に近い低い位置に水銀灯の光が差し込んできていたことは疑う余地がないのである。なお、そうだとすると、犯人がこの付近で仰向けの被害者を蔓で絞頸すれば頭部が持ち上がって地面の雑草の上に被害者の顔が出、これに水銀灯の光が当たることも十分考えられるといえよう。

弁護人は、58/7/8施行の裁判所検証調書(二)を根拠に右のような客観的状況はなかった旨主張する。

しかし、右検証(夜間)は、事件当時と右検証時の水銀灯方向の木の生育状況の相違を考慮に入れなかったという明白な誤謬の存するものであって、その結果を右の判断に用いることはできないのである。

(四) 右のような採光状態についての捜査官の認識について検討する。

関連する捜査経過を概観すると、一七日、昼の検証が行われたが、その検証調書《検30》を見ると、死体発見現場から付近照明設備への見通し状況についての写真などはないものの、「(五)現場付近の照明状況」として、死体のあった付近からの水銀灯2、街路灯、生活改善センターの門灯の方向、距離が記載され、見取り図1にはその位置等が記載されている。一九日は、午後一〇時三〇分から午後一一時〇五分まで、現場で、遠藤刑事課長、森山らにより照度検査が行われた。二〇日は、午前一〇時から午後五時まで、現場で実況見分がなされた。その実況見分調書(員作成の7/25付け実況見分調書《検31》)によると、水銀灯2、街路灯への見通し状況も見分され、その写真も添付されている。なお、一九日昼間田中検察官、署長、遠藤刑事課長、捜査一課長、鑑識課長らが現場を見分しているが、森山がこれに同行して現場に行ったようなことがあったのかどうかは判然としない。

一九日の夜の照度検査は一応被告人の一九日までの供述の裏付け捜査とみられる。しかし、本件犯行は深夜の犯行と推測されていたものであり、捜査員としても当初から現場の採光の問題に着目していたことは間違いなかろう。一七日昼の検証でも付近の照度設備である水銀灯2等との距離、方向も測定されているのである。もっとも、右に述べたように一七日の昼の検証調書には水銀灯2等への見通し状況の写真などがない。しかし、この日死体発見現場では相当の時間検証が行われており、しかも、右のように水銀灯2等との距離、方向の測定をするという行為もなされている以上、少なくとも、本件梅林に水銀灯2の光が直接当たるという関係があること、梅林内から見て水銀灯2方向が梅の木の枝葉などで完全にふさがれているわけでなく隙間も存することなどは当然知ったと考えられるし、そうであれば、夜間に検証したわけでないので、厳密なことまでは分からなかったではあろうが、水銀灯2の光が梅林内に全く差し込まないわけでなくある程度は差し込んでくるであろうとの見当は付けえたと考えられるのである。

そうすると、一九日の田中検察官らの見分の内容の詳細は不明であるのでこれは一応除いて考えると、捜査員は一九日までの間に前述したような採光状態の厳密な認識はなかったものの、水銀灯2の光がある程度梅林内に射入することの認識はあったものといいうる。

取調官である森山の認識についてみる。被告人は一九日までに前記供述をしたものであるが、田中検察官らの見分内容がどのようなものであったのか、森山も死体発見現場に行ったのかどうかは判然としないので、これは一応考慮外において考える。同人は甲野ドライブインの窃盗事件の捜査をしたこともあり、ある程度周辺の地理を知っていた。水銀灯2の存在も前から知っていたと窺われる。また、一七日の昼や夜の検証には従事しなかったが、被害者の遺体を返しに夜甲野方に行っている。そして、その際、当然捜査本部の設置されていた体育館に行って残っていた捜査員と事件について話をするなどのこともあったと思われる。被告人は一九日までに前記供述をしたのであるが、それまでに森山は右の外にも種々の形で現場の状況についての情報を得ているものと思われる。森山はその証言等から水銀灯2の光が本件梅林に直接当たること自体は知っていたと窺われる。その余の知識については、前記の前提に立って考えれば、最高限捜査員について述べたところを越えないと考えられる。

捜査官の既存知識についての検討は、次に述べる事情があるので、この程度に止める。

(五) 被告人は、現場の明かりについて森山から聞かれ、水銀灯は知っていたし、水銀灯の光が現場の山に当たる方向になっているので、自分から水銀灯について供述した旨弁解している。つまり、殺害現場の明かりとして水銀灯の光が差し込んでいたと述べたことについては、被告人は、直接的な誘導も示唆、暗示等も否定しているとみてよいのである。そうすると、本件の場合、秘密の暴露については、捜査官の既存知識よりも、むしろ、体験供述性の方が問題となる。なお、街路灯の射入については、被告人は、森山から誘導され知らないまま供述した、街路灯が付近にあることも知らなかった旨供述している。

被告人は子供のころ本件梅林の上の方では遊んだことがあり、野田方前小道から入る山道は通ったことはないが、大体の状況は知っていた、当時は梅の木はなく、段々畑であったなどと供述しており、これは一応信用できよう。また、被告人は水銀灯2の存在についても知っていたものである。

そうすると、水銀灯2の射入については被告人のそれまでの知識等からして想像で述べるということは一応可能な範囲に属するといえよう。

ところで、被告人は一九日までに「この場所は水銀灯のあかりでよく見えて水銀灯(体育館前の)がよく見える位置であった。」と述べたのであるが、立てば暗く座ると明るかったとか、地面に近い位置にのみ水銀灯が差し込んでいたとか、穴の空いたような隙間があったとか水銀灯の射入状況の特徴が特別に述べられているわけではない。また、実際には街路灯も死体発見現場には差し込んでいたのであるが、これについては一切触れられていない。被害者の顔が「青白く見えた。」とも述べているが、「水銀灯の光で」とは述べておらず、「水銀灯のあかりでかどうか」と述べるのみである(なお、森山が「で」と供述したように公判で述べているため、被告人がなぜ「でかどうか」と述べたのかがよく分からないままになっている。)。そして、「青白い」というのは人の死という事態から容易に連想しうる顔色である。

このように、前記供述はそう具体性を備えた水銀灯の射入状況を述べるものとはいえないのである(右の点は、採光状態につきそのすべてを詳細に述べていなければ信用できないなどといっているものではない。単に想像で述べうる余地のある内容であることを指摘しているにすぎない。)。

この水銀灯の射入状況に関する供述は、二〇日には、「水銀灯のあかりでかどうか」が「水銀灯のあかりで」となった。そして、街路灯の射入も加わった。その後、水銀灯や街路灯の射入状況を含む殺害状況に関する供述は、著しく詳細なものになっていくが、かえって、そのことが不自然さを印象づけている。

被告人は、街路灯が付近にあることは知らず、街路灯の光の射入は森山に誘導され知らぬまま答えた旨一貫して述べているところ、森山ノートには街路灯の記述はなく、7/20付け森山調書で初めて出てくることやその内容もあまり明瞭でないことなどを考えれば、街路灯の光の射入は森山に誘導されて知らぬまま答えたというのは、おそらくそのとおりであろうと思われる。ところが、この街路灯関連のその後の供述を追っていくと、犯人であってもあまり記憶に残っていそうにない微細な点にわたって詳細に供述している。また、水銀灯2の光の射入に関する供述も7/20付け森山調書では前に要約した程度であったのに、その後の水銀灯関連の供述を追うとやはり同様の問題を指摘できるのである。

被告人は、田中や森山の取調べの際鳥肌を立てていたことがあった。また、被害者に追い掛けられ被害者の顔にかみつかれる夢を見たこともあった。そして、被告人は、自分のしたことの恐ろしさに身も震えるなどと自白調書で述べている。

被害者の死体のあった位置付近では穴の空いたような隙間から地面に近い低い位置に水銀灯の光が差し込んできていたのであり、被告人は一九日までに、水銀灯がよく見えたとか、水銀灯でかどうか被害者の顔が青白く見えたとか述べていたのであり、これらに照らすと、被告人の現場の採光状態に関する供述は経験した者の供述ではないかとの疑いを感じないではない。しかし、既に述べたような問題も存するので、この点だけを強調して自白全体の信用性を判断することは危険であって、結局他の供述とも併せ総合的に判断すべきものと考えられる。そして、そのような観点から見ると、被告人の自白は全体として実感に乏しいうえ、客観的証拠との齟齬、不自然・不合理な供述、あるべき説明の欠落、供述の変遷理由の説明がないことなど種々疑問点のあることは以下に詳述するとおりであり、被告人の現場の採光状態に関する供述にはこれらの疑問点を圧倒するだけの力はないと考えられる。そうすると、翻って、右供述の体験供述性にはなお疑問が残るといわざるをえないのである。

三  自白調書の検討

検察官は、被告人の自白調書は細部に若干の矛盾があるものの、大筋において十分に信用性があるし、被害者の連れ出し状況や殺害現場などについてその内容が変遷しているものの、その変遷は不自然・不合理なものでなく、自白内容の信用性を損なうものでない旨主張する。以下、順次検討する。

1 連れ出し方法

(一) 連れ出し方法については、供述の変遷があるが、被告人の最終的な供述は概略次のとおりである。

甲野を出て、立ち小便をしているとき被害者を強姦してやろうと決意した。まず、甲野の南側の玄関(住居部玄関のこと)を見ると、玄関ガラス戸の外側から見て左側が約八〇センチメートル開いていて、廊下には誰もいなかった。寝室の窓ガラスのところに行くと、寝室に電灯が付いていたが、すりガラスのため中は見えなかった。窓ガラスを開けようと木枠の部分を左手で引っ張ったが開かないので、ガラス戸の木部を右手でこんこんとたたいた。もし被害者が出てくれば連れ出し、兄の二郎だったらやめるつもりだった。玄関ガラス戸の外側から見て右側の外にしゃがみ様子をみていると、人の気配がし、玄関内を見るとパジャマ姿の被害者がいたので、玄関に入り、玄関土間から一メートル位離れた廊下に立っていた被害者を、土足のまま左足を一歩踏み出して抱え、連れ出した。玄関は開け放しで閉めなかった。

(二) まず、客観的証拠との齟齬があるかどうかから検討する。

(1) 被告人は、連れ出しのため、寝室南側の窓ガラスを開けようと木枠の部分を引っ張ったが、開かなかったので、ガラス窓の木部をこんこんとたたいた旨供述し、二四日現場で南窓の外側から向かって右方のガラス戸を左手で開けようとし右手でたたいたと指示している。

森山は、被告人は、一七日夜の小笠原の取調べでは被害者が既に屋外にいた旨、一八日、二〇日の森山の取調べでは被告人が玄関に行ったらちょうど被害者が玄関にいた旨いずれも供述していたが、不自然なので寝室南窓の方に足跡のあったことや薄青色ペンキ片が窓下に落下していたことなどを指摘しさらに追及したところ、二一日に至り、連れ出しのため窓を開けようとしたり窓をたたいたりしたことを供述したと証言している。

被告人が、一六日午後一一時三〇分ころ店を出てから被害者連れ出し可能時間帯内に寝室窓前に行き、番号35、番号36の足跡を印象させたことは疑いない。

しかし、ペンキ片の落下していたのは南窓の外から向かって右端付近の直下であるところ(二四日被告人が現場で指示した際立ったのはこの付近である。)、番号35、番号36の足跡は南窓前ではあるが、左方のガラス戸の前に印象されている。しかも、右足跡は、その位置、方向などからして、被告人が左方ガラス戸のしかもその左寄り前の犬走り上に立ち入ったために印象されたものと推量されるのであって、右足跡自体から、被告人が南窓右端付近に立ち入ったことを窺うことはできないのである。

また、右ペンキ片の落ちていた付近からは被告人の足跡はもちろん他の足跡も採取されていない。その直近からも番号45の印象者不明足跡が採取されたのみで被告人の足跡は採取されていない。さらに、直近よりもやや外側に目をやっても、他人の足跡は採取されているが被告人の足跡は採取されていない。

なるほど、足跡は寝室南側敷地から番号33ないし番号48まで採取されているが、見落としのため採取もれになったものもあったであろう。しかし、少なくともペンキ片の落下していた付近及びその直近付近は、捜査官がペンキ片に着目していた以上(一七日夜の検証調書《検29》の写真11にペンキ片の落下状況が撮影されている。)、当然足跡の有無も念入りに調べられたものと思われる。

ところで、佐貫の五六回証言によれば、番号45の足跡の印象された付近の土の状態は足跡が付きやすかったとのことであり、またペンキ片の落下していた付近の状態も右検証調書写真11によれば、泥土状で足跡が付着しやすいそれであったものとみられる。

たしかに、被告人が当夜履いていた運動靴は靴裏がかなり摩滅しており印象しにくい靴であったと思われるし、また、被告人が足跡を印象させた後捜索者などがその上を踏めば残らないこともありうるが、捜査官がペンキ片の落下に着目していたにもかかわらずペンキ片の落下していた付近、その直近付近、さらにはその周囲からも被告人の足跡が一切発見されていないということは軽視することのできない事実といわなければならない。

一七日の夜の検証では、ペンキ片が落下していたため、捜査官は窓を開閉して実験し、ペンキ片は窓の開閉により容易に落下する旨検証している。

したがって、窓ガラスそのものに指紋その他接触痕などなんらかの痕跡があるかどうかも検証したものとみるのが自然であるところ、何らの痕跡も発見されていない。

たしかに、被告人は窓を開けようとした際には窓枠の木の部分を持ち、窓ガラスをたたく際にも窓枠の木の部分をたたいた旨供述し、二四日もそのように指示している。

しかし、開けようとする際もたたく際も木枠の部分だけ触りガラス部分には触らなかったということ自体が酔余犯行をしようとしている者の行為としてやや不自然であるし、また二四日の被告人の指示は酔余何とか窓を開けようとする者の行為としてはいかにも窮屈で行為の自然さに欠けるうえ、実際に木枠を持って開けようとすれば自然にガラス部分にも触れなんらかの痕跡が遺留されそうなものであるが、格別の痕跡がなかったのである。

また、ペンキ片が検証時落下していたのは間違いなく、かつ、検証官がこれに着目したのは当然のことであるが、しかし、ペンキ片は窓の開閉によって容易に落下するというのであるから、犯行時以外に落下したものである可能性も十分あるのであって、ペンキ片が犯行時に落下したものかどうかは不明というしかないのである。

さらに、被告人は窓を開けようとしたが開かなかった旨供述しているところ、窓は内鍵がかかっていなかったのであり、滑車は付いていなかったものの、成人男子が何とか開けようとすれば、開いたであろうと思われるのである(一七日夜の検証調書にも開閉の難易について記述はないことからして、開閉が特別に困難な窓でもなかったのであろう。)。

そうすると、結局、被告人の、被害者の連れ出しのために、南窓の右端に行って、窓の木枠を持って窓を開けようとしたり開かないので木枠をたたいたりした旨の供述は、裏付けを欠きむしろそのような行為はなかったのではないかとの疑いが強く、その信用性には疑問があるといわざるをえない。

(2) 被告人は、住居部玄関は八〇センチメートル位開いていたし、玄関から被害者を連れ去る際も開けたままにしていった旨供述している。

一郎は、一七日午前〇時四〇分ころ帰宅し店舗勝手口から入って寝室に入った。そして、一郎は、午前一時一五分ころ被害者の行方不明に気付いて夏子とともに被害者を捜し始めたのであるが、両名が被害者の行方不明に気付き、被害者を捜し始めたときに住居部玄関が閉まっていたことは、夏子の7/24付け検面《検査18》、一郎の7/20付け員面《検10》により明らかである。

ところで、被告人の、店を出て間もなく被害者を連れ出したとの供述を前提にすると、被告人は、午後一二時前には玄関を開け放しにして玄関を出たということになるのであるが、午前一時一五分ころには右のとおり玄関は閉まっていたのである。その間に、誰かが玄関を閉めるということがあったのであろうか。

しかし、被告人が店を出た後帰った客はすべて店舗玄関から帰っており住居部玄関から帰った者はいない。

また、渡は、一七日午前〇時一五分ころ帰宅したが、店舗勝手口から帰ったと述べている(7/18付け員面《検22》)。渡の供述は、前記したような問題点があるのであるが、午前〇時一五分ころ帰ったことは夏子もそのように述べており、また、従業員が勝手口から出退勤していたことは森前マリ子の7/18付け巡面《検27》によっても窺知しうるところであるから、右供述は信用しえよう。

このように、午後一二時前ころから午前一時一五分ころまでの間に店の客、従業員等で住居部玄関を利用した者は全くいなかったのであり、開いていた玄関を閉めたかもしれない人間は具体的には全く浮かんでいないのである。

そうすると、住居部玄関は午後一二時前ころも午前一時一五分ころと同様閉まっていたと推量されるのであって、被告人の玄関は開けたままにしたとの供述は、これと矛盾し、その信用性に疑問があるといわざるをえないのである。

被告人は、被害者連れ出しに行ったとき、住居部玄関は開いていたと供述している。

しかし、被告人が犯人であるとすれば、右に述べたところからして、被告人は玄関を出る際玄関を閉めていったということになる。被告人は、被害者を両手で抱きかかえて玄関外に出ているのである。そのような状態であるのに、なぜ玄関をわざわざ閉めるという行動に出たのか。玄関が元々開いていたのであればわざわざ閉めるということは考えにくい。玄関が閉まっていたからこそわざわざ閉めるという行動に出たのであろうと考えられるのである。つまり、被告人が犯人であれば、被告人が被害者連れ出しに行ったとき玄関は閉まっていた公算が極めて大ということになるのである。また、夏子は、7/17付け員面《検13》で、住居部玄関は鍵はしていなかったが戸を閉めていた旨述べ、7/24付け検面《検18》で、被害者の様子を見に寝室に行った際玄関は閉まっていたと思う旨述べている(なお、寝室の入り口は片開きのドアで、ノブは右方に付いている。したがって、寝室に入るときはともかく、出るときはまさに玄関方向に体も視線も向くことになる。そうすると、特に被告人の最終的な供述のように玄関引き戸が八〇センチメートル位も開いていてほぼ完全開放の状態であったとすれば、夏子は格別注意していなくとも玄関の開いていることに気が付いたと思われるし、また、そうであれば、その記憶が夏子に残っていてよさそうに思える。)。

これらに照らすと、被告人の、住居部玄関が開いていたとの供述も裏付けを欠き、むしろそのような事実はなかったのではないかとみられるから、その信用性に疑問があるといわなければならない。

(三) 供述の変遷についてみる。

(1) 連れ出し方法に関する供述の変遷を概観すると、以下のようになる。

被告人は、「被害者が玄関の外にいた。」(7/18付け小笠原調書)、「玄関が少し開いており、被害者がいた。」(7/18付け森山調書、7/19付け検察官作成の弁解録取書)、「被害者が玄関の奥の廊下にいた。土足のまま寝室のドア付近まで上がりこんでいると思う。」(7/20付け森山調書)、「玄関は四〇センチメートル位開いていた。寝室南窓を開けようとしたが開かなかった。窓のガラス戸をこんこんとたたいた。被害者が出ていたので土足のまま一歩踏み出した。」(7/21付け森山調書(八枚綴りのもの)《検125》)、「窓ガラスを開けようとしたが開かなかった。開かないので足場をして部屋の中を見ようといろいろやったが思い出せない。しかたなくガラス戸のさん(木部)をこんこんとたたいた。玄関は四〇センチメートル位開いていた。」(7/22付け森山調書(八枚綴りのもの)《検149》)、「玄関は七〇ないし八〇センチメートル位開いていた。窓枠をゆすったり窓ガラスをたたいたりした。玄関先に出てきた被害者をいきなり抱き上げた。」(7/23付け検面)などと供述している。

(2) 前記のとおり、連れ出しの際に、窓枠を持って開けようとしたり窓枠をたたいたりした旨の供述は、二一日に初めて出た。

この供述については、森山はペンキ片などを指摘して追及したところ被告人が供述したと証言し、被告人も公判において想像して述べたという点は異なるが、ペンキ片を指摘され追及を受けた旨供述している。

ところで、本件の被告人の司法警察員作成の供述調書は、総じて供述変遷の理由が書かれていない。

検察官調書では総体的に、取調べの当初記憶が混乱していたのに次々と質問されてうまく話せなかった、だんだんに記憶を整理して供述してきた旨の記載はあるが、まことに個別的、具体的ではない恨みがある。

連れ出しに関しても、なぜ連れ出しのために窓を開けようとしたり窓をたたいたりしたという供述をしたのか、それまでの供述は虚偽だったのか、そうとすればなぜ虚偽供述をしていたのか、他に窓を開けようとしたり窓をたたいたりしたとの供述をしなかった理由があるのかなど、何ら説明されていない。

そして、既に述べたように、窓を開けようとしたり窓をたたいたりしたという供述は、その信用性に疑問があるといわざるをえないのであるから、右供述は捜査官の追及、誘導と自己の想像によりなされたものであるとの被告人の弁解もあながち排斥することはできないといわざるをえないのである。

(3) また、被告人は住居部玄関が開いていた旨供述しているが、開き具合につき、「少し(開いており被害者がいた。)」(7/18付け森山調書、7/19付け検察官作成の弁解録取書)、「四〇センチメートル位」(7/21付け(八枚綴りのもの)、7/22付け(八枚綴りのもの)各森山調書)、「七〇ないし八〇センチメートル位」(7/23付け検面)と変遷しているが、なぜ玄関の開き具合がだんだん大きくなっていったのかにつき、具体的、個別的な変遷の理由が記載されていない。

そして、既に述べたように、住居部玄関が開いていたという供述は、その信用性に疑問があるといわざるをえないのであるから、右供述は誘導と想像によりなされたものであるという被告人の弁解もこれまたあながち排斥することはできないといわざるをえないのである。

(4) また、被告人が住居部玄関のどの辺りまで侵入したかについて、7/20付け森山調書では土足のまま寝室のドア付近にまで上がり込んでいる旨供述していたが、翌日の7/21付け調書(八枚綴りのもの)では玄関に被害者が出てきたので土足のまま一歩踏み出したと供述が変わっている。こんこんとたたいたという供述が出たためとも思われるが、そうすると、7/20付け森山調書の寝室のドア付近まで上がり込んでいる旨の供述は何だったのか。その説明はなされておらず、捜査官の誘導の疑いを否定することはできないといわざるをえない。

検察官は、捜査官(森山)は、寝室の中まで入ったのではないかと追及しているのに被告人は捜査官に迎合しなかったのであり、被告人になんらかの記憶があったことが窺われる旨主張するが、連れ出しに関する被告人の捜査段階の供述はむしろ誘導の疑いが否定できないのであって、寝室内に入ったと供述しなかったからといって、被告人になんらかの記憶があったとみることは相当でない。

(5) なお、7/22付け調書(八枚綴りのもの)で、被告人は、「窓ガラスを開けようとしたが動かない。酒に酔っていて元気がよいから無理にでも開けようとガタガタやったが、どこをどうしたかはっきり覚えていない。開かないので足場をしてこれに上がって部屋の中を見ようといろいろやったが思い出せない。」旨供述している。

たしかに、看板は倒れていた。既に述べたように犯人が倒したと断定することはできないが、被告人が右のような行為に出たとすれば、看板を倒した可能性が大きいと思われるところ、後に述べるように被告人は看板については最終的には覚えていない旨供述している。

一七日の夜の検証によれば、窓下には瓦、発泡スチロールの箱、植木鉢などがあったが、格別の異常はなかったことが窺われる。

そして、右供述は、翌日の7/23付け検面では、なくなっており、かつ、その理由は明らかにされていない。捜査官の誘導の疑いを否定することのできない所以である。

(6) また、被告人は、寝室窓下の看板の存在について、二三日までは一切供述していなかったが、二四日引き当たり検証の際に「看板はあった。」旨指示し、二四日の右検証に基づいて取られた7/25付け調書でも「看板はあった。」旨供述した。しかし、8/5付け検面では「看板はなかったと思う。」と供述を変えた。

右のように、被告人は供述を明らかに変更させたが、その理由は示されていない。

検察官は、8/5付け検面の被告人の右供述を指摘して捜査官に迎合していない証左であると主張する。

しかし、仮に「看板はなかったと思う。」旨の供述が被告人の記憶に合致したものであったとすれば、被告人は二四日には捜査官に対し迎合していたという疑いが出てしまうのではないか。

また、検察官は、現場の客観的状況をすべて正確に自白していなければ自白内容に信用性がないというわけではない旨主張する。

しかし、南窓前に滞留しておびき出し工作をし、しかも瓦の存在を事件当時の記憶として有しているという者であれば、瓦の前にあった、縦九三センチメートル、横一八三センチメートルの大きさの看板を記憶しているのが通常ではなかろうか。

被告人の供述に看板の存在がないことは被告人の自白に一つの疑問を提起するものといえる。

(四) あるべき説明の欠落があるかについて検討する。

番号35、番号36の足跡からして被告人は南窓の左方ガラス戸の左方寄りの付近に立ち入ったとみられるのであるが、被告人の供述調書中にはこの付近に立ち入ったことを述べる部分は全く見当たらない。しかし、被告人が仮に犯人であり、おびき出し工作のため寝室南側敷地に行きこの付近に立ち入ったというのであれば、この付近に立ち入ったことやそこでどんなことをしたのかの概要くらいは記憶していてもよさそうに思える。

この点について何らの供述もないことは、あるべき説明の欠落を感じさせる。

(五) まとめ

以上要するに、被告人の連れ出しに関する供述には、様々の問題があり、犯人の記憶に基づく供述とみることにはなお疑問が残るものといわざるをえないのである。

2 側溝

(一) 被害者は水を吸引していたものであるが、被告人は、一七日の小笠原の取調べのときから、被害者を側溝に突き落とした旨供述しており、その後も一貫して右供述を維持している。

被告人が、小笠原に対して供述していた側溝がどこの側溝を指していたのかについては判然としないが、一八日の森山の取調べの最終時には具体的な位置は必ずしも明瞭でないものの、野田方前の側溝を供述しており、その後も野田方前の側溝に突き落とした旨供述している。

側溝についての供述内容には一部変遷があるが、被告人の最終的な供述は概略次のとおりである。

被害者を抱きかかえたまま野田方前の小道を走り、まず一度被害者を降ろし一息入れ、再び抱きかかえて歩き始めたが、左肩がきりきりと痛んだため被害者を下に落とすような感じで降ろした。被害者は右ひざを打ったらしく泣きだした。肩をもんでいると、被害者が小道を北方に歩きだしたので、泣きやませるためと逃げられては困るため、被害者の背中の中央部あたりを右手で後ろから突き飛ばしたところ、被害者は小道の右側の側溝に頭からすっぽりはまったように倒れ込んだ。肩などをもんでいたが、被害者は身動きしなかった。約二〇秒位後被害者を側溝から吊り上げた。石段を上がった所くらいで抱き替えたが、そのとき被害者の胸、腹の部分と両ひざが濡れているのを感じた。

(二) 野田方前の小道は、幅員約二メートル、有効幅員約〇・九メートルであり、そのほぼ中央付近に草もなく人が歩いたことによりできた土の露出部分があった(員作成の7/29付け検証調書《検114》の写真21ないし24など。)。

被害者が小道を北方に向かって歩いていたとすれば、小道の中央付近を歩いていたものと思われる。

被告人は、その被害者の背中を右手で押したところ被害者は右側の側溝にすっぽりはまったと供述しているのであるが、そもそも一押しで側溝にすっぽりはまるということがありうるのかどうかには疑問がある。

また、被告人の供述するところによれば、被害者が泣いていたのを黙らせるためにいきなり一押ししたということになるのであるが、泣いている子供に有形力を行使すれば、かえって大きな声で泣くなどの事態も予想され、もともと被告人と被害者とは面識があったことなどを考慮すれば、まず懐柔するなどの方法も考えられるところであり、被告人の述べる一押しをした経緯も必ずしも説得的でない面が看取される。

さらに、被害者は身長が一一五センチメートルであったから、小道の中央付近に立っていた被害者が右側の側溝の方に倒れれば、側溝に頭部等が入るようになるということはありえないではないが、右手で押して右側の側溝の方に倒れるということがありうるのかどうかにも疑問がある。

このように被告人の前記供述には不自然な点ないし説得的でない点が目につくのであるが、被告人が犯人であれば、右は酔余の犯行についての供述ということになり、右に述べたような点があるからというだけでは、その信用性を否定するのは性急にすぎると思料されるので、右供述と被害者の最終状態(外観及び解剖所見等)との間に齟齬がないかどうかという、より基本的な問題点について検討していくこととする(ただし、プランクトン検査結果との齟齬の問題は後に論ずる。)。

(1) まず、被告人の供述のとおり、一押しによって被害者が側溝にすっぽりはまった、二〇秒位はそのままで身動きしなかったとして、被害者の最終状態との間に齟齬があるかどうかについて検討する。

〈1〉 泥の吸引

ア  福井作成の59/1/19付け鑑定書《検332》等によれば、次のように認められる。

昭和五八年一一月一五日付けで、検察官は被害者の死体解剖をした福井有公に対し、被害者の泥水吸引の有無について鑑定を嘱託した。

福井は、昭和五六年七月一七日の被害者の死体解剖後ホルマリン液で固定した、被害者の左右の各肺の各葉から合計五個の組織塊を切り出し、鑑定したところ、各部位ともほぼ同様の所見を呈したが、泥水吸引の有無を直接証明する所見は認められなかった。

イ  七月二〇日に実施された実況見分調書(員作成の7/25付け実況見分調書《検31》)の添付図面によれば、野田方前の側溝のうち第一起点から五八・三メートルの地点の状況は、側溝の幅約四五センチメートル、側溝の深さ約二五センチメートル、水深約五センチメートルであった。

この地点は、二四日現場検証において被告人が被害者を突き落とした時に被害者の頭部があった位置であると指示説明した地点とほぼ同じ所である。

また、二〇日午後六時三〇分から該側溝から鑑定資料として泥や泥水を採取している。

したがって、被告人が指示した側溝の底が泥であったことは間違いのないところである。

ただし、泥がどの程度堆積していたかなどは見分されていない(なお、58/7/8施行裁判所検証調書(一)によると、右地点における泥の厚さを右検証時検尺したところ(検尺方法不明)、約八・二センチメートルであった。また、58/11/14施行裁判所検証調書によると、右地点における泥の厚さを右検証時直径約三センチメートルの棒を突き立てて検尺したところ、約一四センチメートルであった。)。

ウ  ところで、泳げない者が水中に落ちた場合、「まず前駆期として一瞬吸気の後、呼吸を停止している時期がある。これは一分近く続くのが普通である。」といわれている(書作成の元/2/17付け報告書《職42》添付の富田功著「法律家のための法医学」抜粋)。

もっとも、野田方前側溝は、一六日夕方に降雨はあったものの水深は数センチメートル程度であったものと推測され、小学校一年生の被害者にとって格別深いというようなものではなかったと思われる。

したがって、被害者が側溝に落とされた後防衛本能により、顔(口鼻部)を上げようとしたことは十分考えられるし、底が泥で軟弱であっても水深からして被害者がひじを使うなどして何とか顔(口鼻部)を上げようとすれば水の上に顔(口鼻部)を上げることができたのではないかとも思われる(この程度の身体の動静は身動きしなかったとの被告人の供述に背馳するというほどのものではない。)。

そうすると、被害者が側溝の中にはまった直後一度は水を口鼻部から吸い込んだがその後は口鼻部を上げるなり呼吸を停止するなりして、そうしている間に側溝から吊り上げられるなどして出た、すなわち、被害者が水を吸引したのは一度だけであったということも一応考えられないではない。

そして、側溝にはまった直後一度水を吸引しただけなら、底が泥であっても、泥までは吸引しないということもありうるかもしれない。

しかし、他方、被害者が一度水を吸引したのち口鼻部を上げあるいは被害者が呼吸を停止したと断定することはできないし、突き落とされた直後一度吸引しただけであっても、該側溝は水深が数センチメートルであったとみられるところ、泥の堆積が仮に数センチメートルあれば、被害者の頭や体が入ると同時に泥と泥の上を流れる水とが混濁し、その泥水を吸引するということも十分考えられるし、また、そうであればその痕跡が肺組織の中に残ることも十分考えられるように思われる。

〈2〉 泥の付着

ア  裁判所は、昭和五八年一一月四日、野田方前の側溝にパジャマ上下を着せた人形を落下させ、パジャマ等に付着する泥の量を確認するという実験(検証)を行った。

しかし、右実験は、盛夏でなく晩秋に行われており、側溝の脇(小道の側溝寄り)の雑草の生育状況が本件当時と大きく相違しているなど、実験条件に問題を含んでいるので、この結果を安易に援用することはできないといわなければならない。

イ  しかしながら、被告人は、被害者は側溝に頭からスポッとはまったように突っ込み二〇秒位はそのままだった、側溝から吊り上げて石段を上がった所くらいで抱き替えたがそのとき被害者の胸、腹の部分と両ひざが濡れているのを感じた旨供述している。

そして、事件当時の現場の状況は、昭和五八年実験(検証)時と同一とはいえないものの、事件当時も側溝の底は泥であったのであり、その泥がどの程度堆積していたかなどについての事件当時の資料はないが、被害者が突き落とされて全身が底が泥の側溝に二〇秒程度はまっていたにしては、被害者のパジャマの泥の付着量は少なすぎるのではないかとの感を否めないのである。

〈3〉 解剖所見との整合

福井の10/6付け鑑定書《検106》によれば、被害者の気道内の水様物は呼吸障害による生体抵抗機構の高度の減弱をきたすことによって被害者の絞頸窒息死に大きく関与したものとされ、また、証人福井は公判で、被害者は絞殺される前に水を吸引させられたものであるが、水を吸引させられたままで置いておけばそのまま遷延死する可能性もあった、水に漬けられていた時間については具体的論拠に乏しいが、一分以内と思われる旨証言している。

被害者が側溝の中に二〇秒程度そのままはまっていたというのは、右解剖所見と格別齟齬していないものとみられる。

しかし、解剖所見によると、溺水による呼吸障害により生体抵抗機構の高度の減弱をきたし放置すれば遷延死する可能性もあったというのであって、これによれば、被害者が水を吸引したのが一度だけでその後は呼吸を停止しあるいは顔(口鼻部)を水面上に上げるなどしたとはいえないのではないか、そして、吸引が一度ならず数度であったとすれば当然泥水も吸引しその痕跡が肺組織に残ってよいのではないかなどの疑問が出るのである。

(2) つぎに、被告人は被害者は側溝に全身がすっぽりはまり二〇秒程度そのまま身動きしなかった旨供述しているが、小道にいた被害者が一押しされたとすれば側溝の方に斜めに倒れ込むということがより可能性のある事態として想定されるので、被害者が側溝に斜めに倒れ込み、多少の動きはあってもこの状態が被告人に吊り上げられるまでの二〇秒位続いたとして(もっとも、本件側溝の幅員は約四五センチメートルと狭いところ、小道と側溝の落差は約二五センチメートルあり、側溝の小道側は石が側壁状に連なり、反対側は石垣となっていたのであるから、仮に被害者が小道で一押しされて側溝の方に斜めに倒れ込んでいったというのであれば、被害者の怪我は現にその死体に存する程度のものに止まりはしなかったのではないかとの疑問がわくのである。つまり、被害者が側溝の方に斜めに倒れ込んでいったとの想定は、被告人の小道で一押ししたとの供述からは、全身がすっぽりはまったということよりはまだありそうな想定ということにはなるのであるが、他面、本件側溝の構造や被害者の怪我の状況とは整合しにくいという点を指摘できるのである。しかし、ここではこの問題をさておいて、右想定のもとに検討を進める。なお、側溝に斜めに倒れ込み側溝から脱出できないままその状態が継続することがあるかどうかであるが、やや疑問もあるものの、頭部が低い側溝中にあり、側溝の底が泥で軟弱であることを考えれば、全く起こりえないとまではいえないと思われる。)、被害者の最終状態と齟齬があるかどうかについて考察する。

〈1〉  泥の吸引

この点については、概ね(1)の〈1〉で述べたと同様のことがいえると考えられる。

〈2〉  泥の付着

被害者が斜めに側溝に倒れ、身体の一部が側溝脇に残ったとすると、その付近は事件当時相当草も生えていたのであるから、草が被害者のパジャマに泥が付着するのをかなり防いだものとみられる。

また、被害者が斜めに倒れたものとしても、その倒れ方には様々の態様が考えられるので、頭部のほかに身体のどの部分が側溝の水に漬かったのかは一概にいうことができない。

もっとも、死体発見時被害者のパジャマ前面は上下とも湿っていた。そして、このこととの整合を考えると、被害者の身体のかなりの範囲が水に漬かったとみるのが相当と思われるが、しかし、かなりの範囲といっても、その範囲の確定はできない。また、身体の一部が側溝外にある関係上身体ないしパジャマの前側でも水には漬かったが側溝の泥底には接しなかった部分も相当ありうると思われる。

これらに照らすと、被害者が底が泥である野田方前側溝に突き落とされて二〇秒位はまっていたとしても、被害者のパジャマに泥がかなりないしある程度の量付着しなければおかしいとまではいえないのであり、たしかに、被害者のパジャマに付着していた泥の量は少なく、やや疑問も感じないわけではないが、反射的な防御行動としてひじをついたりしたことがパジャマの泥の付着量を減少させたということもありうることも併せれば、特別に不自然とまではいいにくいと思われる。

〈3〉  解剖所見との整合

この点については、概ね(1)の〈3〉で述べたと同様のことがあてはまる。

なお、被告人は、被害者の頭を側溝の中に押し付けたのではないかとの追及に対しては否定している(7/21付け員面(八枚綴りのもの)《検125》)。

一方で、被告人が被害者の頭を側溝の中に押し付けるなどの行為をすれば解剖所見に合致するような状態が惹起されそうであるが、他方そうすると側溝の底は泥であったのであり泥の吸引が証明されてよさそうなものであるし、被害者のパジャマの首や前胸部あるいは被害者の髪等にもっと泥が付着していてよいのではないかとの疑問が出る。

(3) 以上のまとめ

解剖所見等客観的証拠からすると、被害者は溺水による呼吸障害により生体抵抗機構に高度の減弱をきたしそのままにしておけば遷延死する可能性もあったものであり、パジャマにはあまり泥は付着しておらず(強姦のためパジャマズボンを上げ下ろしした際付着したとみられるパジャマズボン腰付近等の泥は除く。)、泥の吸引は直接証明されていない。

被害者を右客観的状態にするには、該側溝ではかなり困難なのではないだろうか。

結局、被告人の供述そのものに不自然な点ややや説得的でない点があるうえ、被告人の供述をそのまま前提にすれば、泥の吸引、パジャマの泥の付着量などに疑問が出るし、被害者が斜めに倒れたとしても、被害者の解剖結果などから疑問が出てくるのであって、その疑問の中には被告人が一部虚偽供述をしていたとみれば説明できそうな疑問もあるのであるがそうするとまた別の疑問を生ぜしめるのであって、統一的に説明することは困難といわざるをえない。

(三) プランクトン検査

(1) 福井作成の8/11付け鑑定結果通知書《検134》によれば、被害者の肺組織から少数の珪藻類(エピテミア)及び緑藻類が検出されている。

一方、七月二〇日午後六時三〇分から午後九時一五分までの間に野田方前の側溝の南端を起点として、北方に二二・〇メートルの地点と三一・五メートルの地点(この地点は、被告人が二四日現場検証において被害者を側溝に突き落とした時に被害者の頭部があった位置であると指示説明した地点(ハ)とほぼ同じ所である。)から側溝底の泥を含んだ水をそれぞれ約三〇〇ミリリットル採取し、二二日付けでプランクトン検査を福井に鑑定嘱託したところ、いずれの水資料からも、少量の珪藻類が検出され、その種別はナビクラ(フナガタケイソウ属)、エピテミア(エピテミア属)及びバチラリア(クサリケイソウ属)と判定された(前記鑑定結果通知書)。

(2) 被害者の肺組織からは緑藻類のプランクトンが検出されているのに、七月二〇日採取の野田方前の側溝の水二資料からいずれも緑藻類のプランクトンは検出されなかったことから、被害者が吸引した水は野田方前の側溝の水ではないのではないかとの疑問が出る。

検察官は、プランクトン検査の精度、福井の専門的能力などを問題とし、同鑑定は、双方の水の同一性を論ずる情報にはならないものであると主張する。

そこで検討する。

藻類の研究者である島根大学教育学部教授秋山優の証言によると、プランクトンは綱、属、種によって分類され、エピテミア属には約二〇種、ナビクラ属には約一〇〇種のプランクトンがあると認められるところ、前記鑑定結果通知書を見ると、珪藻類については綱及び属しか記載されておらず種名の記載はなく、緑藻類については綱しか記載されておらず属名の記載もない。

ところで、昭和六一年に秋山が野田方前の側溝も含め現場付近の側溝その他の水のプランクトン検査を実施している。

右検査は事件から約五年経過ししかも野田方前側溝がコンクリート化された後に行われたもので、その検査結果から事件当時のプランクトン生息状況につき何かを推測するということは困難なのであるが、それはさておき、右検査結果をとりまとめた秋山作成の61/11/9付け鑑定書《検270》と福井作成の前記鑑定結果通知書を対比すると、後者は前者に較べ学問的厳密さ等において明らかに見劣りするものであり、このことは遡って福井のプランクトン検査そのものの精度についての疑問も感じさせるといわなければならない。

しかしながら、この点を考慮しても、なお被害者は野田方前側溝の水とは別の水を吸引したのではないかとの疑問は残るといわなければならない。

福井は被害者の肺組織の一部を取り出してこれをホモジナイザーで砕き、組織溶解剤を加え、超音波照射を行って組織を溶解させて鏡検し緑藻類の存在を確認した(なお、福井は藻類の専門家ではないものの溺死体について専門知識を有する法医学者であり、珪藻類等を緑藻類と見誤ったとは考えにくい。)。ところで、被害者の肺組織の全重量は三四〇グラムであったのであるが、このことからすると、資料である被害者の肺組織の一部の中に含まれていた水は少量であったとみられる。緑藻類はこのような少量の水の中から検出されているのである。また、右のように鏡検のため資料には組織溶解剤を加えるなどの処理が施されたのであるが、緑藻類は珪酸質の殻がないため壊れやすいにもかかわらず、右処理を経た後においてもなお検出されたのである。これらの点に照らすと、被害者の吸引した水は緑藻類(属種不明)のかなり出現頻度の高い水であったであろうと推測されるのである。

ところで、野田方前の側溝で採取した水資料からは緑藻類は検出されなかった。しかし、仮に野田方前の側溝の水資料が被害者の肺の水について推測されると同様の状態、すなわち、緑藻類がかなりの出現頻度で存在する状態であったとすれば、そう検査精度が高くなかったとしても、緑藻類が検出されてもよかったように思われる。野田方前の側溝の水資料は二つあり、したがって、福井は野田方前の側溝の水について一回でなく、二回プランクトン検査を行っているのであるが、このことも考えると、なおさらそのように思われるのである。

野田方前の側溝の水資料から緑藻類の検出されなかったことをどう考えるべきであろうか。前記のように検査精度の問題があるので断定することはできないものの、被害者の吸引した水は野田方前の側溝の水ではなかったとの可能性をかなり示唆しているというべきであろう。

(3) 右のようにプランクトン検査の結果からも、被害者が野田方前の側溝の水を吸引したようには考えにくいのであって、(二)の検討結果に、この検討結果も併せると、被害者が水を吸引させられた場所が被告人の自白する野田方前の側溝でない疑いは一層濃いものになるといわなければならない。

(四) 供述の変遷

被告人は、一七日の小笠原の取調べの時から被害者を側溝に突き倒した旨供述していたのであるが、小笠原の取調べのとき被告人が供述していた側溝がどこの側溝であるかは判然としていない。

森山図面によると、野田方前小道から町道下町沢久谷線に出たすぐ右手の道脇の側溝の上に赤ボールペンでマークがされているが、これは、一八日の森山の取調べの冒頭で被告人が指示した側溝の位置と思われる。

また、右図面には、山に向かう道の南側の野田方前側溝の上に長四角のマークが鉛筆で書かれているが、これは被告人が森山に最終的に供述した側溝の位置と思われる。

右のとおり、小笠原の取調べのとき被告人が突き倒した側溝としてどこを指示していたか判然としないので、これと森山の取調べの冒頭で被告人が指示した位置との異同は不明であるが、森山の取調べの冒頭で指示した位置と被告人が最終的に指示した位置とは明らかに異なっている。

そして、右図面には、右に挙げた以外にも、鉛筆書きで、山に向かう道の北側の野田方前側溝の上、町道の側溝の上、田の縁などに長四角のマークがいくつも付されており、それぞれのマークがいかなる理由で付されたのか判然としないものの、これだけの数のマークが付されているところを見ると、森山の取調べで冒頭に被告人が指示した位置から最終的に指示した位置に落ち着くまで、何か曲折もあったのではないかとも思えるのである。

ところで、九回ないし一一回公判で森山の証人尋問が行われているが、なぜか検察官は、森山の取調べで側溝が山に向かう道の南側の野田方前側溝と特定されるまでの経緯について全く尋問していない。そのため、右の経緯については前記した程度のことしか分からないのであり、結局側溝の位置の供述変更が記憶喚起によるものかどうか判然としないままになっている。

(五) 不自然な供述

被告人は、小道にいた被害者を背後から右手で押して側溝に突き倒し、被害者は側溝にすっぽりはまり二〇秒位はそのままであった旨供述している。

既に述べたように、被害者は小道に立っていたのであり背後から右手で押されただけで右側の側溝の方に倒れ込むということがあるかどうかがそもそも疑問であるし、また、側溝に頭から突っ込むことがあったとしてもすっぽりはまるというようなことがあるものかどうかも疑問であり、幼児とはいえ小学校一年生でもあり側溝にはまったまま二〇秒位もそのままであったというのもやや不自然な感じが残るといわざるをえないのである。

(六) その他

検察官は、被害者は右ひざに怪我をしているところ、被告人は被害者を小道に降ろした時にひざをついたような形になった旨供述していることと符合する旨主張する。

しかしながら、被害者のひざの怪我の位置をみるに、通常ころんでひざをすりむいたりする際に怪我をする位置と比べて、被害者の右ひざの怪我の位置はやや上でやや内側である(ひざをついた姿勢をとると、右怪我の位置は大腿部下部の方に移動する。)。

被告人は、抱えていた被害者を降ろした時に被害者がひざをつくような恰好になった旨供述しているので、ころんでひざをすりむいたりする際とは若干異なるとしても被告人の右供述により被害者の右ひざの怪我ができるものかどうかはやや疑問が残るといわねばならない。

また、検察官は、被告人が被害者を小道の上に一回目に降ろした時の供述として「しんどくなり」との言葉を使用しているが、これはいわゆる関西弁であり被告人は京都で長く生活していたのであるから被告人自身が供述した言葉であると推測される旨主張する。

さらに、検察官は、被告人は被害者を小道の上に二回目に降ろしたのは以前骨折した肩の痛みのためである旨供述しているところ、被告人は昭和四九年ころ左鎖骨骨折で入院したことがあるのであって、右供述には裏付けがある旨主張する。

しかしながら、捜査官に対して何かを説明しなければならない立場の者が自らの言葉を用いて自らの怪我のことも交えて供述するということはありうることであって、右供述は被告人の自白の信用性を格別高めるようなものではないことはいうまでもない。

(七) まとめ

被告人は、被害者を野田方前の側溝に突き倒したと供述しているものであるが、この供述はそれ自体水漬け行為という本件における重要な行動の具体的内容を明らかにするものであるばかりでなく、裏山に入ったルート、強姦状況(特に強姦現場)等本件の重要事項に関する供述と極めて密接な関係を有するものであり(野田方前の側溝に突き倒したとの供述が信用できないということになると、被告人の野田方前小道の途中から裏山へ向かう道に入ったとの供述も信用性に重大な疑問が出、また、強姦現場等に関する供述も信用性に重大な疑問が出るという関係が存する。)、被告人の自白全体の中ではかなり根幹的部分に属するものといって差し支えないのである。そして、被告人の右供述がこのような性格のものであることに鑑みると、被告人が犯人であれば、いかに酔っていたという事情があったにしても、この供述が客観的証拠と符合しないというようなことは通常はないであろうと考えられるところ、既に述べたように、被告人の右供述は、不自然な点が目につくばかりでなく、被害者の最終状態と整合がかなり困難であり、しかもプランクトン検査の結果も勘案すると、いよいよ客観的証拠と齟齬していないとの説明が難しくなるのであって、結局、右供述をもって犯人の記憶に基づく供述とみることには重大な疑義があるとしなければならないのである。

なお、一七日の小笠原の取調べ時被告人が小笠原にどこの側溝を指示していたかは判然としないが、被告人は野田方前の小道から町道に出てすぐの町道脇の側溝を指示していたと述べ、小笠原は野田方前の側溝と述べている。被告人の述べるのが正しいとすれば、被告人は水がほとんど流れていなかったと思われる側溝を小笠原に指示していたことになることは既に述べたが、小笠原の述べるのが正しいとしても、被告人は記憶に基づくものとみることには重大な疑義が存する指示をしたことになるのである。いずれにしても被告人はこのように記憶に基づかないと疑われる指示を既に一七日の午後九時ころという極めて早い段階からなしていたことになるのであって、この点は注目されてよい。

3 強姦

前述のように、被害者が水を吸引させられた場所は被告人が自白した野田方前の側溝でない疑いがある。本件では、だからといって、水の吸引場所として確率の高い場所を具体的に挙げられるわけではないが、被告人が自白した側溝以外の場所で被害者が水を吸引した可能性があるとなると、水の吸引についての自白の信用性に疑問が呈されるのみならず、さらにそのことは、それだけで強姦(いたずら)の場所ひいてはその態様についての被告人の自白の信用性に重大な疑問をもたらすものである。

(一) 強姦の場所・態様に関して被告人の供述は一部変遷している点もあるが、被告人の最終的な供述は概ね次のとおりである。

強姦した場所は山道を一度右に曲がり左に折れた付近ないし三差路の付近で(62/7/14施行の裁判所検証調書8地点付近ないし9地点付近)、被害者を仰向けにし、被害者のパジャマズボンとパンツを脱がせて左足首付近によせ、まず右手の指で陰部にいたずらをし、その後勃起している陰茎を挿入しようとしたが入らなかったので挿入をあきらめ手淫した。精液は右手で拭き、その手を付近に生育していた細長い葉の草で拭いた。

(二) そこで、被告人の右供述に客観的証拠との齟齬があるかどうか、右供述に裏付け証拠があるかどうかを検討する(適宜、供述の変遷が説明できるかどうかやあるべき説明がなされているかどうかなどについても触れる。)。

(1) 二〇日夜の紫外線照射検査

二〇日午後六時三〇分から午後九時一五分までの間、鑑識資料の採取及び精液落下位置等の検索が行われた(員作成の「鑑識資料採取及び精液落下位置等の検索について」と題する書面《検228》)。

右書面添付の第一図、第三図の、C(前記検証調書9地点付近)、D(同検証調書10地点から上の墓(南々東方向の墓)までの付近)、E(上の墓の北側付近)について、紫外線物質鑑識器により紫外線を照射して検索した。

その結果、Dの〈1〉地点の地面上に五×四センチメートル大の範囲に米粒大から栗粒大の蛍光を発するものが確認された。その他、紫外線照射による特異な反応はみられなかった。

そして、右蛍光を発した泥を採取し、精液付着の有無の鑑定をしたが、精液の証明はできなかった。

右紫外線照射による検索は、犯行時から約四日経過後に行われているのであるが、その間降雨はなかった。

そして、一か所とはいえ蛍光を発して反応した部分があったところ、被告人が二四日現場検証で強姦現場として指示した9地点などからは反応はなかったのである。

ところで、被告人は、8/6付け検面《検99》で、強姦現場は8地点付近かもしれない旨供述するに至っている。

たしかに、深夜に山道上で犯行を行った者であってみれば、場所についての供述がやや幅のあるものになっても必ずしも不自然でないと一応いえなくもない。

しかしながら、被告人は、一旦二四日にしゅろの木があるので間違いないとして強姦現場として9地点を指示したものである(7/25付け員面《検126》で、被告人は「現場をはっきり覚えていた。しゅろの木に見覚えがあった。」などと供述している。)。

そして、強姦について八月五日に検察官に詳細に調べられ、9地点付近に符合する地形も説明しつつ、そこで強姦したことを明確に供述したあと、翌六日に8地点付近にもしゅろの木があった、8地点付近かもしれないなどと供述を変遷させているのである。二四日9地点付近以外にもしゅろの木があることを知りながら9地点を指示していたこと、8地点付近は山に入ってほどないところで強姦するのにあまり適わしい場所のようにも思えないことなども併せると、右変遷は唐突の感を否めないといわなければならない。

後に述べるが、二四日被告人が現場で指示した細長い葉の草(シャガ)から精液痕は検出されなかった。この検査結果は員作成の10/2付け電話聴取書《検229》に記載されているが、鑑定嘱託は二四日付けでなされており、事柄の性質上検査自体は早期になされたものとみるのが相当であるところ、検査は科学捜査研究所が実施しており、その結果が内部連絡で八月六日ころまでには検察官の手元に入手されていたということは十分考えられる。

なお、後にも述べるが、被害者の陰部には草が挿入されていた。この草がノガリヤスであることは、西上教授作成の9/25付け鑑定書《検107》に記載されており、この鑑定嘱託は八月三日付けである。ところで、ノガリヤスは八月四日の西上立会いの採取では9地点付近には存在しなかった(右鑑定書)。後述のように、この採取にはやや精密度に問題はあるが、存在しないとの結果が出たことは間違いない。しかし、これらの鑑定は警察ではなく外部の西上が行っており、二、三日のうちに検察官が結果を知りうるかどうかは不明であるが、かなり難しいとも思える。

そうすると、強姦現場に関する8/6付け検面の内容は、右ノガリヤスの件まで検察官が知りえたかどうかはともかく、細長い葉の草(シャガ)についての右鑑定結果を知り、また、二〇日夜の右検査結果などを考慮したうえで、取調官(検察官)が被告人に対し、なんらかの示唆をしたことによりなされた供述なのではないかとの疑いを否定できないというべきである。

(2) 被告人の陰部、ブリーフ

被告人が一七日午後一時四〇分ころ自己の陰部を拭き取って任意提出したガーゼ及び被告人が一八日午前一時〇五分ころに任意提出したブリーフの鑑定結果については既に述べたとおりである。

被告人のブリーフには精液が付着していたのであるが、精液付着といっても微量であるうえ、射精したのであれば精子が付着していてよさそうであるのに精子の付着はなかったのである。

また、手淫により射精したというのであれば、精液を手で拭き取ったとはいっても、被告人の陰部に精液痕が残っていてもよさそうなものであるが(手で拭き取るという行為によって、精液付着箇所が広範囲になり、かえって精液痕が残りやすいということも考えられる。)、犯行想定時刻から約半日後被告人の陰部からは精液痕は検出されなかった。

もちろん被告人が犯行隠蔽工作をしていれば、精液痕は検出されなくて当然なのであり、そして被告人自身の陰部についてのことなので被告人が隠蔽工作をしようと思えばいつでもできたとはいえるが、一七日午後一時四〇分までに陰部を洗うなどの工作がなされた形跡は格別見当たらない。

結局、被告人が手淫したという現場付近や被告人の陰部、ブリーフなどからは、被告人の射精の供述を裏付ける価値ある証拠は発見されていないのである。

(3) 二四日現場検証でのシャガ

被告人は、二四日の現場検証で、強姦現場を指示するように言われて、二〇分程度探したものの指示をしないまま、先に殺害現場に案内すると言って、殺害現場での検証をした後、再び強姦現場をある程度の時間探し、結局、三差路付近(9地点付近)を指示した。

そして、そこで強姦の態様などを指示説明し、射精後精液を拭き取った手を拭いたという草(シャガ)を指示したので、これを現場で採取し、精液付着の有無の鑑定をしたが、精液の証明はできなかった。

なるほど、草の精液検査は、被告人が指示した草についてのみ実施しているにすぎない。

また、検察官の主張するように、二三日には現場付近で降雨が認められている。

しかし、二四日に現場で被告人が指示した草からは精液は検出されなかったし、二〇日の紫外線照射の際も右草のあった付近に蛍光反応があったわけでもないし、その他被告人が射精後精液を拭き取った手を草で拭いたという供述の裏付け証拠はないといわざるをえない。

なお、被告人は、引き当たり検証前の7/23付け検面《検96》で、射精は草むらの中にし後は何か細長いような葉で拭いた旨供述しているのであるが、9地点付近には細長い葉の草があるものの、細長い葉との供述は格別特異な内容を持つものではないので、右供述があるにしてもこれから手淫供述が信用できるとすることはできない。

(4) 被告人の爪

被告人が一七日午後一時四〇分ころ任意提出した爪についての鑑定結果は既に述べたとおりである。

たしかに、被告人の右手の人指し指、中指、薬指の三本の指の爪に血痕付着が疑われるということは、被告人が右手で被害者の陰部にいたずらしたという供述に符合している。

しかし、前に述べたような状況を考えると、供述の裏付け証拠としても、右のことにあまり価値を見出すことはできないといわなければならない。

(5) ヤマノイモ

被告人は、二四日の現場引き当たり検証で、強姦現場を三差路付近(9地点付近)である旨指示し、しゅろの木があるので間違いないと供述した。

また、被告人の供述によれば、被害者のパンツを脱がせたのは強姦の時のみとなるが、被害者の右の尻にはヤマノイモの葉が付着しており、かつ、陰部にはノガリヤスが挿入されていた。

死体発見現場と被告人が供述した強姦現場付近の植物の生育状況を確認するため、八月四日西上の立会いを得て各現場の植物を採取し(員作成の8/4付け「対照資料の採取について」と題する書面《検70》)、その後西上が鑑定し各植物名を特定した。

自供強姦現場付近では、山道及び山道の斜面から一七種類の植物を採取した。

死体発見現場では採取範囲を九区画しているが、自供強姦現場付近の方はどの植物がどの付近から採取されたのかは明らかになっていない。

なお、右書面には、採取した範囲を撮影したものと思われる写真が添付されているが、それぞれがどの付近を撮影したものか記載されていないので、中にはどの付近を撮影したものか判然としないものもある。

ところで、八月四日、自供強姦現場付近から採取した植物の中には、ヤマノイモはなかったが、しかし、七月二九日ヤマノイモの蔓の引っ張り強度の検査のための資料採取がなされた際には、右強姦現場付近の東南角辺りから山芋様の蔓が採取されている。

そうすると、八月四日には自供強姦現場付近からはヤマノイモは採取されなかったのであるが、その前の七月二九日には少なくとも東南角辺りには存在していたのであって、八月四日の少なくとも自供強姦現場付近での採取の精密度にやや問題が残るとともに、結局一六日深夜の犯行時には少なくとも東南角辺りにヤマノイモは存在していたものと推測されるということになる。

しかしながら、被告人の供述によれば、三差路上に被害者を置いたということになるが、ヤマノイモが三差路上でパジャマズボンなどを脱がせられたりはかされたりした被害者の尻などに付着するようなところにあったといえるかどうかについては、右書面添付の写真、58/7/8施行の裁判所検証調書(一)の添付写真その他この付近を撮影した写真に徴して相当疑問というべきであろう。

むしろ、殺害現場(死体発見現場)であれば、ヤマノイモは多く生育しているので、殺害現場で被害者にヤマノイモが付着したのではないかとの疑いも感じさせられるのであるが、ヤマノイモ自体は山中の他の場所でも生育しており、結局被害者にヤマノイモがどこで付着したかは判然としない。

(6) ノガリヤス

〈1〉  被害者は発見されたとき、陰部にノガリヤスが挿入された状態であった。

被告人の供述によれば、被害者のパンツを脱がせたのは強姦現場でだけで、死体発見現場では殺害しかしていないということになる。

前記西上作成の鑑定書によれば、自供強姦現場から八月四日採取した植物の中には、ノガリヤスはなかった。

検察官は、右現場が採取までにかなり荒らされていた旨主張するが、少なくとも山道脇の斜面については格別荒らされたというような事情は認められないし、山道上については後にも述べるようにそもそも初めから植物が多く生育していたとも窺われず、採取に影響する程荒らされていたとは認められないのである。また、前述のとおり、八月四日の採取の精密度にやや問題もあり、ノガリヤスが、該付近に生育していなかったとまで断定はしにくいが、前記「対照資料の採取について」と題する書面の添付写真その他9地点付近を撮影した写真を見てもノガリヤスの株様のものは写っていないので、生育していなかった疑いはかなり強いとみられる。

ところで、死体発見現場では死体のあった近くにノガリヤスが生育している。そして、このことは、犯人が死体発見現場でノガリヤスでのいたずらをしたのではないかとの可能性を一応窺わせないでもない。

しかし、ノガリヤスは死体発見現場以外では生育していないというようなものではないと思われるし、被害者のパンツやパジャマズボンの汚れからして死体発見現場以外で犯人に脱がされたものとみられるところ、死体発見現場でもいたずらされているとすれば二回いたずら(強姦を含む。)されたということになりありうることかどうかやや疑問でもあり、結局ノガリヤスでのいたずらがどこでなされたかは確定できないのである。

〈2〉  ノガリヤスでのいたずらは犯人が人為的になしたものとみられる。

ところが、被告人は、草でのいたずらについては一切供述していない。

そのうえ、8/6付け検面では、「パンツ・ズボンをはかせたが、現場が暗かったことからごそごそやりながらはかせており、泥とか葉っぱ等がパンツの中等に入ったと思う。」旨記載されているが、この供述がノガリヤスのことも含めて取られているとすれば、ノガリヤスが偶然に紛れこんだかのような供述には信用性がないといわざるをえず、検察官がなぜこのような供述を取ったのか、疑問を感ずる。

被告人がノガリヤスでのいたずらにつき供述していない理由は、調書が問答式で取られていないため、全く分からないのである。

田中は、証人として、被告人は取調べの際、女の子にいたずらしたような話はまじめに話すようなことではないなどと言っていたと述べるが、そのような話があったとしても、話したくないから供述しなかったのか、記憶になかったということなのか、いずれにしても不明というほかなく、あるべき説明の欠落を感ずるのである。

(7) パジャマ・パンツ

被告人は、被害者を仰向けに降ろした後、「被害者のパジャマズボンとパンツを一枚ずつ脱がせ、右足は全部脱がせ左足は足首付近まで脱がせた。強姦した後、パンツ、パジャマズボンの順にはかせた。」旨供述している。

たしかに、被害者のパジャマズボンやパンツには裏側にも泥が付着しており、犯人がそれらを脱がしたことは明らかである。

しかし、被害者の特にパンツの裏側にはひどく泥が付着していたのであるが、一六日夕方夕立のあったことを考慮しても、被告人の供述に従い、山道上特に笹や竹の枯葉が堆積しやすい場所と窺われる9地点付近で被告人の供述するような行為をしたとしてこれほどまでにひどく泥が付着するかは疑問もある。また、そのような場所でパンツやパジャマズボンを脱がしたらパンツやパジャマズボンの中に笹や竹の枯葉が入り込んでもよさそうであるが、笹や竹の枯葉とわかるものはパンツやパジャマズボンの中からは発見されていないのである。

そのうえ、手淫の裏付けや手を拭いたという草の裏付けもなく、ノガリヤスの問題もあり、そもそも水の吸引場所との関係で強姦現場が山道上であるかどうかについて疑問が呈されている。

さらに、被害者の尻やパンツ裏等の泥の付着状況からすると強姦時などに被告人の手にも泥が相当付着してもよさそうなものであり、また自らの手のことであるからこの点についてなんらかの言及があってもよさそうであるのに、強姦時やパンツをはかせた時の状況についての供述の中にそのような供述はないし、その他供述全体をみても手に泥などが付着していたとの供述はない。なぜこの点の供述がないのか疑問も残る。

なお、死体発見現場でパンツなどを脱がせてもとりわけパンツの裏側に付着していたような顕著な泥の付着は生じないとみられるが、そうであるからといって、泥が付着したのは山道上においてほかにないと推論することはできないことはいうまでもない。

(三) 検察官は、一九日までに被告人は「挿入できなかったので、強姦をあきらめ、手淫した。」旨特異な供述をしているところ、二〇日の段階でも被害者の膣内に精液があるかどうか判明しておらず、その後福井が検査して精液が付いていないことが裏付けられたと主張する。そこで、検討する。

(1) 被告人は一八日の森山の取調べで強姦行為に及んだことを認めた。その日の森山調書、翌日の検察官作成の弁解録取書、7/20付け森山調書における強姦に関する供述内容の要旨は前に記したとおりである。

手淫の供述が調書上初めて現れるのは二〇日である。

しかし、森山ノートの「最初におことわり」と記載されたページの次のページの13中には「ちんぽのいわゆるカリ首のあたりまで入った様に思うが、正確にはどの辺りまで入ったかよくわからんが、あまり入らないのでやめた。膣の中には射精をしていない。外にセンズリをかいて出した。」などの記載があり、この部分が一九日までに出た被告人の供述を記載したものであることは、括弧書きで付記された内容や7/20付け森山調書の内容などから十分推認しうる。

手淫供述が森山の述べるように一八日に被告人から出たかどうかであるが、既に指摘したような問題点があって、そうとまでは断じにくく、そうすると、手淫供述は一九日までに出たものというのほかない。

(2) 次に、被害者の陰部への精液付着の有無に関する捜査経過をみる。

森山は、一七日の福井の司法解剖に立ち会ったが、その時点における福井の説明は、処女膜裂傷があるので姦淫が推定されるが、手指によるものである可能性もあるという程度のものであったとみられる(員作成の7/20付け解剖立会報告書《検36》)。

一七日昼の検証の際採取した被害者陰部に付着している血痕様のものを拭き取ったガーゼ片、被害者のパジャマ上衣、パジャマズボン、パンツから、精液の付着が証明されなかったことは既に述べたとおりであるが、右四点ほか二点を鑑定資料とし鑑定事項を精液付着の有無などとする鑑定嘱託は一七日付けで、島根県警察本部刑事部科学捜査研究所に対しなされており、鑑定書(研究所技師犬山玲子作成の島科研第六〇四号鑑定書《検50》)の作成日付けは八月六日付けである。ところで、右鑑定書によると、鑑定期間は七月一八日から同月二一日までの間と記載されている。しかし、これは同鑑定書に記載された全鑑定資料について全鑑定事項の鑑定に要した期間が記載されているものとみられるので、たとえば、右ガーゼ片について精液付着の有無の検査結果が出たのがいつかなどは不明である。

一七日の死体解剖時ガーゼ片に付着させて採取した膣内物、同解剖時スライドグラスに付着させて採取した膣内物からも精液の付着を証明できなかったことも既に述べたとおりであるが、右二点ほか五点を鑑定資料とし鑑定事項を精液混在の有無などとする鑑定嘱託は、前記科学捜査研究所に対し一七日付けでなされており、鑑定書(研究所技師犬山玲子作成の島科研第六〇六号鑑定書《検58》)の作成日付けは八月一九日付けである。右鑑定書によると、鑑定期間は七月一八日から八月一八日までの間となっているが、たとえば、右のガーゼ片やスライドグラスについて精液付着の有無の検査結果がいつ出たのかなどは不明である。

なお、福井の鑑定でも、被害者の膣内から精液は検出されなかったが、同鑑定書《検106》の作成日付けは一〇月六日付けである。

(3) 被告人は、手淫供述を一九日までにした。

ところで、犯人が被害者の陰部に射精していないことはいつの時点で判明したのであろうか。

弁護人は、一七日の昼の検証時既に明らかであったと主張するが、現場で死体を見ただけでこれが明白に分かったなどとは到底いえない。

また、解剖時点でこれが分かったとすることもできない。

科学捜査研究所に鑑定嘱託した膣内物を付着させたガーゼ片やスライドグラスについての検査結果が川本署に伝わった時点では、遅くも犯人が陰部に射精していないことが明らかになったといえようが、先に述べたとおり、右の検査結果がいつ出たか自体が不明である。

要するに、捜査官が被害者の陰部に犯人が射精していない事実を知ったのは、一八日以降であることは明らかであるが、具体的にいつであったのかは判然としていないのである。

しかしながら、被害者はいまだ小学校一年生であり、処女膜裂傷はあったものの会陰部裂傷はなかったのであるから、犯人が姦淫をしたとしても満足に姦淫できなかったのではないかとの疑問は捜査官としては感じうる状況があったことは認められる。また、被告人にしても、被害者が小学校一年生の幼い女児であることは知っていたのであるから、同様の疑問を感じたとして不思議ではないと認められる。

被告人の弁解は、必ずしも判然としないが、大要、森山から満足に挿入できたか追及され、被告人自身が想像して、満足に挿入できなかったので途中でやめた旨供述し、さらに、森山からそのあとの処理について聞かれ、想像で、手淫した旨供述したというものであり、森山から強く誘導、示唆を受けたというニュアンスまでは感じられない。

ところで、検察官は、強姦を途中でやめて手淫したとの供述が特異な供述であるという。

しかし、被害者が先に述べたとおり小学校一年生の幼い女児であることを考えれば、満足に挿入できなかったというのは格別特異供述とはいえないし、満足に挿入できなかったための後始末として手淫したとの供述もさほど特異な供述とは思えないのである。

したがって、右程度のものであれば、想像では述べにくい内容であるとはいいえないし、捜査官としても予想しにくい内容であるとまではいえないであろう。

また、なるほど、被告人の強姦を途中でやめ、手淫をしたとの供述は、被害者の膣内から精液が発見されていない事実と符合している。

しかし、右供述は想像で述べえないものではないこと右記のとおりであるうえ、二〇日の紫外線照射等によっても、被告人が二四日指示した9地点付近からは精液は一切発見されていないし(なお、付言すると、被告人は手淫後手で拭き取った精液は9地点付近の山道右脇(10地点の方向を向いて)の崖状の上り斜面に生えていた長い葉の草にすりつけたとしているところ、この上り斜面は人が昇降するような場所ではないし、凶器等捜索のため草をなぎ倒したりする必要のあるような草の密生場所でもない。また、被告人は三差路付近の山道上に立って手淫をした、直前にしゅろの木があったとしているところ、これを前提にして考えると、精液は多くの捜査員が通行したとみられる山道上というよりはむしろ主として山道の左脇(10地点の方向を向いて)の辺りに落下していたということになろう。)、ノガリヤスの問題、ヤマノイモの葉の問題、被害者のパジャマズボン、パンツの問題など、被告人の強姦に関する供述の信用性に疑問を抱かせる要素も多分に存在する。そのうえ、連れ出しや水の吸引場所に関する供述の信用性にも既に述べたように疑問が存するのであって、これらに照らすと、強姦を途中でやめ手淫をしたとの供述につき、前記符合があるにしても、それゆえ右供述が信用できるとまでいうことはできないのである。

(四) その他

(1) 白いような物

被告人は、7/23付け検面で、強姦した際下は草と何か白いような物が敷きつめたようになっていた旨供述している。

検察官は、被告人は右は強姦現場についての記憶の片鱗とみられる旨主張する。

たしかに、62/10/6施行の裁判所検証調書には、天候快晴で月の出ありの状況下で「9地点に立って9地点付近の地面を検するに、黒味がかった地面の上に白っぽいものが多数あることが分かった。目を近付けて見ると白っぽいものが笹又は竹様の葉などの落ち葉であることが分かった。」旨記載されており、これよりすると、検察官の主張に理由があるようにもみえる。

しかし、被告人は、7/20付け森山調書では強姦した際被害者の尻の下は確か砂か草かであったと思う旨供述していたものであり、これが右検面で草と白いような物に変わったのであるが、右変更の理由は明確でないうえ、捜査員は二三日までに少なくとも二回は夜間山道や死体発見現場に立ち入っており、夜間山道が白っぽく見えることに気がついていたと考えられること、田中検察官自身一九日昼には現場に行っており、山道に竹や笹の枯葉が多数落ちていることは知っていたと考えられること、二三日の田中検察官の取調べの前に検討会が開かれており、その際、田中検察官は夜間の山道等の様子についての情報も当然得たであろうと考えられることなどに照らすと、右の供述変更は検察官の示唆等により生じたものとみる余地もあるといわなければならない。そして、本件では、他に強姦現場が山道上であることの裏付けとなるものは特に存しないうえ、水の吸引場所が野田十四秋方前側溝でない疑いがあることは既に述べたとおりであり、これらも併せると、白いような物という供述をもって、被告人に強姦現場についての記憶があることの証左とまでいうことはできないといわなければならない。

(2) 二四日の現場検証時の態度

被告人は二四日の現場検証の際強姦現場を指示するまで相当時間を費やしているが、検察官は、この態度は被告人が自らの記憶をたどっていたことを示すものである旨主張している。

しかし、強姦現場を指示するのに相当時間を費やしたとしても、その理由が自らの記憶に合致するところがなかったためであるか、前日までの取調べで供述していたところに合う場所がはっきりとは分からなかったためであるのかは、このことだけからは判断することはできないというべきである。

4 殺害

(一) 殺害現場

(1) 検察官は、被告人は、小笠原に対しては殺害現場として生活改善センター裏の梅林を供述していたとみられるところ、森山の取調べで、森山に説得されて本件梅林を供述するに至ったが、右供述は水銀灯の射入事実の暴露を含む信用性の高い供述であり、当初違う場所を供述していたのは、助かりたい一心の嘘か、勘違いかのいずれかである旨主張する。

水銀灯の射入事実に関する供述の信用性については既に触れたので、ここでは本件梅林を供述した経緯などから被告人が殺害現場を知っていたといえるかどうかをみることとする。

(2) 小笠原の証言については、前に記したとおりである。

森山は、「被告人は小笠原には生活改善センター裏の梅林を指示していた。小笠原から現場も含め一から聞くようにと言われた。調書用紙の裏に地図を書いて指示させた。現場については生活改善センター裏を指したので、そこではないと言った。事件の重大性を話し、仏をだますことはできないなどと説得した。その後被告人はこっちにも梅林はありませんかと言って、山の上の方を指示してきた。なぜ供述が変わったのかについては被告人に聞いていない。自分の感じにすぎないが、被告人は梅林は一箇所しか知らなかったのではないかと思った。」旨証言している。

(3) 森山図面には、赤ボールペンの記載がある。

右記載は野田方前小道を通って、生活改善センター裏の梅林と思われるところまで、断続的につながっており、これが森山の取調べの当初被告人が指示した現場であると認められる。

そして、右の点や被告人の公判供述等に照らせば、小笠原の取調べのときも、どういう言葉で表現したかはともかく、被告人は生活改善センター裏の梅林を指示していたものと思われる。

なお、被告人は、被害者が発見されたとの放送を聞いて甲野ドライブインまで行く途中、駐在所の前で誰かから「梅林で仏さんになっとった。」旨聞いた、近くの梅林としては生活改善センター裏の梅林はよく知っていたがそれ以外は知らなかったので、生活改善センター裏の梅林を小笠原の取調べの際指示していたと弁解している。

被告人は井原駐在所と甲野ドライブインとの間で八幡垣から本署への任意同行を求められており、任意同行前に駐在所の前を通ったことは間違いなく、そうすると、被告人が駐在所の前で「梅林で仏さんになっとった。」旨聞いたとの事実を否定することはできないであろう。

(4) 被告人が森山に本件梅林を供述した経緯について検討する。

森山の証言は前述のとおりであるが、被告人も公判で図面で生活改善センター裏の梅林を指示したところ森山からそこではない旨言われたと供述しており、ここまでは両者の証言、弁解は合致している。

被告人は、その後、森山図面中のいわゆる2、3、4、5地点(一九回公判調書中の被告人供述調書末尾添付の森山図面の写し参照)を、被害者を濡らし、かつ、首を絞めて殺した現場として指示するなどしたが、さらに違うと森山から言われたうえ、森山が死体発見現場付近を指示して、この方にも梅林がなかったかと言ってきたので、そこかなと思って供述した旨弁解している。

ところで、森山図面中のいわゆる2、3、4、5は、いずれも側溝と思われる部分に長四角にマークしてあるのであるが、森山は、これらのマークについて、「移監近くなってから、被告人と雑談していた際に、被告人がここに水がありませんでしたかなどと聞いてきたので、ここにはなかったなどと言って教えてやったことがある。これらはそのときのマークである。」旨証言している。しかし、右森山証言は、その内容自体やや理解しにくいものを感じるうえ、右マークの状況(鉛筆で何度もなぞられたりしている。)などに照らしても、にわかには措信しえないといわなければならない。

もっとも、森山の右証言が採用しがたくとも、そのことから直ちに被告人の前記弁解がそのとおり信用できるということになるわけではない。

被告人は、右2、3、4、5のマークについて、被害者を濡らし、かつ、首を絞めて殺した現場を指示したものと説明する一方で、これらは被害者を濡らした場所を指示したもので殺した場所としては6地点(生活改善センター裏の梅林の入り口付近)を指示したなどとも説明している。このように、被告人の2、3、4、5のマークについての説明内容は浮動的であって、このことに照らすと、被告人の前記弁解がどこまで具体的な記憶に基づいて述べられたものなのか疑問も存するといわなければならないのである。

しかしながら、被告人の前記弁解がそのとおり信用できないにしても、被告人が前記のように弁解するのは、森山とのやりとりの中で現実に死体の発見された梅林が甲野ドライブインの裏山にあることにつきなんらかの示唆を受けたことがあったが故ではないかとの可能性も否定しきることはできないうえ、仮に、森山の述べるように被告人の方から「こっちの方にも梅林はありませんか。」と聞いていったのが事実であったとしても、被告人は付近の地理を知り裏山の存在も知っていたものであること、生活改善センターの裏の梅林が現実の死体発見現場でないことは森山から教示されていたこと、右のとおり被告人は裏山の梅林につき森山に質問の形で聞いていったものであり、裏山の梅林の存在を積極的に供述していったものでもないことなどに照らせば、このことから被告人が殺害現場を知っていたとみることは直ちにはできないといわなければならないのである。

なお、小笠原は、一七日の取調べのとき被告人が生活改善センター裏の梅林を指示したのは自分が誤導してしまったからであり、被告人は町道ではなく本件梅林に至る泥棒道のことを言っていたのではないかと思うなどと証言しているが、右証言は既に指摘したような問題点に照らしにわかには信用しにくいといわなければならない。

また、森山は、被告人が生活改善センター裏の梅林を指示したのは勘違いしていたのではないかと思った旨証言している。しかし、勘違いが森山が言うような心情に訴える説得によって是正されうるかという問題もあるが、そもそも勘違いするであろうかという疑問がある。

森山が被告人に対し殺害現場が変わった理由を調書に残していない(質問もしなかったという。)のは重大な手落ちといわざるをえない。

8/8付け検面(九枚綴りのもの)《検103》では、若干右経過について「供述のはじめは気が動転しており記憶も混乱していた。梅林の位置等について初めて行った場所であり暗かったしその場所を間違ったりした。」旨の記載がある。

たしかに、気持ちの動転等はなくもないであろうが、しかし、ふたつの梅林を間違ったりすることがあるであろうか。ふたつの梅林は甲野ドライブインから見ればいずれも北方向に位置するが、細く急な山道を上がって行くか、舗装された町道をなだらかに上がって行くかは大きく異なっている。被告人が勘違いしていたというのも説得的ではなく得心しにくいのである。

(5) ところで、被告人は捜査段階で死体発見現場付近の図面を二回書いている。

7/20付け森山調書《検124》添付のものと、7/23付け検面《検96》添付のものである。

二〇日図面は、鉛筆書きで、山道はほぼ真っすぐであり、強姦現場と殺害現場とが同じ高さのところにほぼ接して存在するような形になっている。しかし、同日付け調書中では、図面では山道を大きく書いているが、わりと坂道でくねくねとしていた様に覚えている旨記載されている。なお、梅林の中の被害者の絵には一旦書いたものが消されて書き直したような跡がある。

二三日図面は、ボールペン書きで、山道は稲妻状に書いてあり、実際の山道の形状と全く同じというほどではないが、かなり似かよっている。

ところで、被告人は、図面作成状況について、山道の形状を警察官が図面に書いたり、口頭で教えてくれたことはないが、警察官から坂道が急だから真っすぐ上がれん、曲がっているのではないかなどといろいろ言われ、想像して書いたなどと弁解している。

これに対し、検察官は、被告人の二三日図面は比較的正確で想像で書いたものとは到底思えず、本件事件当夜この山道を通ったからこそ右図面を書きえたものであるなどと主張している。

そこで検討するに、前述したように二〇日図面では山道はほぼ真っすぐに書かれているのに対し、同日付け調書本文ではくねくねしていた様に覚えている旨記載されている。しかし、仮に右記載が被告人自身の記憶であれば図面もそのように書かれていてよさそうであるのに、なぜそのように書かれなかったのであろうか。また、二〇日には右のとおり図面で山道をほぼ真っすぐに書き本文でくねくねしていた様に思うという程度のことしか述べなかった者が、三日後には比較的正確な図面を書いているのであるが、なぜこれが可能であったのであろうか。捜査官の暗示、示唆の介在なしにこのようなことが可能であったとはなかなか信じにくいといわなければならない。検察官は、7/22付け森山調書(七枚綴りのもの)《検150》に「強姦場所は大体二〇日図面に書いた位置である。」などとあることからして二二日までに山道の形状が分かるような取調べはなされていなかったとみるべきであるとしている。たしかに、右の記載や被告人自身の弁解からしても、森山が山道の形状を明確に教示したことはなかったとは思われる。しかし、そうであるにしても、右に述べたところに、側溝や強姦についての先の検討結果なども併せれば、森山や田中の暗示、示唆まで否定することは困難というべきである。

被告人は、子供のころ本件梅林(当時は畑であった。)の上の方で遊んだりして現場付近の大体の地形を知っていたものであるが、本件事件前本件山道を通ったことはなかった旨捜査段階から一貫して供述しており、これを否定することはできない。そのような被告人が二三日図面で比較的実際の形状に近い山道を書けたのであるが、このように書けたのは、右に検討したところに照らせば、森山、田中の暗示、示唆があったためであるとむしろ考えられるのであり、検察官の主張するように右図面の比較的正確なことが事件当夜被告人がこの山道を通ったことを示しているとすることはできないのである。

(6) 以上みたように、被告人は本件梅林を殺害現場とする供述をなしてはいるものの、いまだ被告人が殺害現場を知っていたとまでいうことはできないといわなければならないのである。

(二) 凶器

(1) 被告人は、二〇日午前松江地方裁判所で勾留質問を受けた後、午後三時一五分から川本警察署で森山の取調べを受けたが、その取調べで凶器が蔓であることを供述した。

そして、本件凶器が蔓であること自体は既に述べたように客観的状況に符合している。

(2) しかしながら、次に述べるように、被告人は森山から蔓のようなものはなかったかと聞かれ、山の梅林であれば蔓があると思って想像して蔓で絞めたと供述した旨弁解しているところ、その弁解をいまだ排斥できないうえ、被告人の凶器の取得過程に関する供述にも疑問の点があり、これらに照らすと、前記符合のあることをもって直ちに前記供述が信用できるとまではいえないのである。

(3) 被告人は公判廷で前述のように一貫して弁解している。

ところで、被告人が蔓を供述したのは二〇日の午後であるところ、森山は一七日の司法解剖に立ち会っており被害者の索溝の状況からして被害者が典型的な索状物で絞殺されたものでないであろうとの判断をしていたものである。しかも、森山は少なくとも一九日夜には現場にも行っており本件梅林やその付近が蔓性植物の生育している山中であることの認識も有していたと認められる。そして、森山は、一七、一八日の両日にわたって現場付近等で相当大がかりに行われた検索によっても結局コードその他の典型的索状物の発見に至らなかったという経過も当然知っていたとみられる。また、森山が本件につき被告人の酔余の思い付き的犯行との見方をしていたであろうことも推認に難くない。

これらの点に照らすと、森山は否定しているものの、二〇日の被告人の取調べの際、森山は本件凶器が現場で調達されており、かつ、それは付近に生育している蔓でないかとの見込みをもっていたことも十分考えられるところであり、このことや、供述事項がどんな凶器を使ったかという感触などから当然記憶に残っていてよさそうな事項に関するものであるのに供述の出たのが自供開始後四日目であること、さらに次に述べるように凶器の取得過程に関する供述に疑問の点があることなども併せると、被告人の言うとおりかどうかは別として二〇日の取調べの中でなんらかの形で被告人に森山の右の考えが伝わり、被告人の想像と相俟って凶器を蔓とする供述がなされたのではないかとの可能性を否定しさることはできないのである。

(4) 蔓の取得過程に関する供述について検討する。

被告人の述べるところからすると、被告人は一七日発見された被害者の死体の頭の位置付近にいて、右手を振って、凶器の蔓を取得したということになる。

ところで、員作成の7/28付け検証調書《検30》添付写真、員作成の57/3/5付け捜査報告書《検112》添付写真、員作成の7/29付け検証調書《検114》添付写真、員作成の7/17付け鑑定資料採取報告書《検44》添付写真等によれば、同所に被告人の言うような向きで位置した場合、右手の届く範囲内にヤマノイモがかなりの本数存在したことが認められる。

しかし、員作成の8/4付け「対照資料の採取について」と題する書面《検70》その他によっても明らかなように、ヤマノイモ等の蔓は、何も右の範囲にのみ存在するわけでなく、本件梅林はもとより付近一帯に広く存在しているのであるから、右の範囲にヤマノイモがあった事実は、被告人の凶器取得過程に関する自白の信用性を直ちに高めるものとはいえない。

また、検察官は論告で主張していないが、二四日の検証時、前記位置から東方六〇センチメートル強離れた付近(四本目の梅の木の根本から西に約四〇センチメートル離れた位置)にヤマノイモ様の切り株が一つ発見されたことが認められる。

しかし、右検証時、右切り株の近くに枯れかかったヤマノイモ様の蔓の断片が落ちていたことも認められるし(これは、後日の鑑定の結果に照らせば、本件の凶器でなかったことは明らかである。)、二四日の検証時と一七日の検証時の写真を比較すれば歴然としているとおり、死体発見現場は一七日には、草がかなり密生した状態であったのに、二四日にはこれと随分異なり、地肌の露出した部分が著しく増えており、一七日以降捜査員等多数の者が踏み歩いたり、捜索したりしたことにより、草がかなり荒らされたことが認められるのであって、これらに照らすと、前記位置付近から四本目の梅の木付近の草は比較的荒らされていない方であることを考慮に入れても、前記切り株があったことをもって、被告人の凶器取得過程に関する自白が裏付けられているとすることはできない。

さらに、この点も論告では主張されていないが、一七日の昼の検証調書《検30》によると、右検証時、四本目の梅の木の、地面から一・一メートルの位置の小枝が折れており、その折れ口が新しかったことが認められるところ、田中検察官は、証人として、自らも立ち会った二四日の検証時、この小枝に蔓がからまって枯れていたと証言し、その検証調書《検114》の写真49等を見ると、必ずしも明瞭ではないが、田中証人の述べるとおりの状況であったように一応推測しうる。

しかし、二四日の検証時に右のような状況があったとしても、小枝にからまって枯れている蔓の根本がもともとどこにあったのかも不明であり、かつ、前記のように現場の草が荒らされていたことを考えれば、被告人の凶器取得過程に関する自白の裏付け証拠としての価値は低いというべきである。

他方、被告人の凶器取得に関する自白には、次のような客観的状況と整合しにくい点が存する。

一七日死体発見現場でゼラチン紙により被害者の身体各部から微物採取が行われたが、その後の鑑定の結果、被害者の前頸部に当てたゼラチン紙から、ニンドウの茎の毛が発見されている。

ところで、被告人は、被害者を殺害する際、被害者を仰向けに置き、最後にうつ伏せにしたと述べているが、一七日昼の検証調書《検30》添付の同検証時撮影した写真65、66等、右写真66等の拡大写真を添付した前記57/3/5付け捜査報告書、二四日の検証調書《検114》添付の同検証時撮影した写真51等を見ても、死体発見現場の被害者の上半身のあった場所及びその回りにはニンドウらしきものを認めることはできず、したがって、右の過程で被害者の前頸部にニンドウの茎が直接触れ、その茎の毛が同所に付着したということは考えにくい。

また、被告人が二四日検証時強姦した場所としてダミーを置いた付近の山道上には、二四日の検証調書添付写真65等、前記「対照資料の採取について」と題する書面添付写真17等によれば、ほとんど草はなく、もとよりニンドウらしきものの存在も認めることができないうえ(検察官は、人が踏み荒らしたため草がなくなったようにいうが、58/7/8施行の裁判所検証調書添付の写真40ないし42、62/7/14施行の裁判所検証調書添付の写真34、35等によっても知りうるように、同所は山道上であるためもともとほとんど草がなかったものとみられる。なお、右添付写真と二四日の検証調書添付写真とを対比すると、ほぼ同じ季節に撮影されたのに、後者に写っている道を覆う竹か笹の落ち葉の量が、前者に写っているそれよりかなり少ないことが認められるが、これは、一七日以降多数の者が踏み荒らすなどしたことが原因していると思われ、事件当時の落ち葉の量は二四日の検証調書添付写真に写っているよりはもっと多かったものと推定される。)、被告人は被害者を仰向けにして強姦したと述べ、自慰の後始末は細長い葉の草(シャガ)でしたと述べているのであるから、強姦現場で被害者の前頸部に直接ニンドウが当たってその茎の毛が付着したことは考えにくく、また、ニンドウの茎の毛が強姦現場で被告人の手に付着し、これが被告人の言う殺害現場での蔓による絞頸に先立つ手による絞頸を通して、被害者の前頸部に付着したともいいにくいのである(被告人は、8/6付け検面《検99》で強姦現場はいわゆる9地点より下の8地点付近であったかもしれない旨述べているが、たとえ8地点付近と考えても同様の問題はあるのである。)。

そうすると、被告人の供述を前提とする限りは、ニンドウの茎の毛は、右手で蔓を探した際、ニンドウに右手が触れ、その茎の毛が被告人の右手に付着し、蔓による絞頸の際被告人の右手から被害者の前頸部に移着したか、被告人が取って凶器に用いた蔓がニンドウであったため被害者の前頸部にその毛が付着したかのいずれかであるとの可能性が大ということになるが(これを否定することは、強姦状況に関する自白の信用性に疑問を投げ掛けることになる。)、一七日昼の検証調書添付写真54ないし65、前記捜査報告書添付写真4ないし7、前記鑑識資料採取報告書添付写真1ないし3(以上の写真は、一七日検証時に撮影されたものであるが、これらによって、被告人の右手で届く範囲はほぼカバーされているであろう。)を精査しても右手で届くと思われる範囲にはニンドウは見当たらないのであり(なお、八月四日死体発見現場の植物採取をした際、被害者死体の上半身のあった位置の半径約一メートル以内に存在した蔓性植物はヤマノイモのみで、ニンドウは存在しなかった。)、したがって、前者であったとは考えにくいし、また、後者についても、もし後者であったとすれば、被告人は蔓を探すために右手を振っていく間に何本かヤマノイモに触れたはずであるのにこれを取ることなく右の行動を継続し、最後にその付近にただ一本しかなかったニンドウを偶然選ぶがごとく取り、これを用いて被害者の首を絞めた(その結果、被害者の前頸部にニンドウの茎の毛が付着するとともに被告人の右手の届く範囲にはニンドウは存在しなくなった。)ということになって、全くありえないとはいえないにしてもいかにもできすぎた話という感を否めないのであり、二四日検証時後者であったことに結び付くような証跡も特に発見されていないことも併せると、後者であった可能性も低いといわざるをえないのである。

このように被告人の供述にしたがって検討してくると、なぜ被害者の前頸部にニンドウの茎の毛が付着しているのかについての疑問は解消されないまま残るのであり、このことにヤマノイモの組織が葉の断片等も含め頸部から一切発見されていないことも併せると、本件が草の多く生育している山中でなされた犯行であるという点や、右の判断が写真に依拠しているという点もあるので、被告人の凶器取得過程に関する供述が客観的状況と完全に相容れないとまではいえないにしても、かなり整合しにくいとはいえるのであって、その信用性には簡単には割り切れぬ疑問を生ぜしめるといわなければならない。

(三) 供述の変遷

(1) 殺害現場と強姦現場

殺害現場と強姦現場とに関する被告人の供述の経過は次のとおりである。

ア  7/18付け小笠原調書《検148》

同一場所

イ  7/18付け森山調書《検123》

「人の居らない草むらで強姦し、最後には絞め殺してしまいました。」(場所が同一かどうかについては不明。)

ウ  検察官作成の7/19付け弁解録取書《検121》

「その場で」(同一場所)

エ  7/20付け勾留質問調書《検122》

同一場所の被疑事実を認めた。

オ  7/20付け森山調書《検124》

「強姦場所から五、六メートル(もっと離れているかもしれない)位の梅の木のある畑に入った。」

一八日深夜に作成されたと思われる送致事実は、同一場所になっている。

また、森山ノートの該当箇所には、「この場所(強姦場所のこと)から五、六メートル位のところ(あまり離れていないところ)の梅木のある畑に連れて行った。」旨記載がある。

この部分については、森山は一八日の被告人の取調べのときに書いた旨証言するが、他の部分につき既に述べた理由と同じ理由により、一九日の夜までに書かれたものと認定せざるをえない。

そうすると、被告人は、一八日(取調べはほぼ一七日であるが)小笠原に対しては同一場所と供述し、森山に対しては一八日ないし一九日に二か所(別の場所)と供述し、検察官に対しては一九日に同一場所と供述し、裁判官に対しては二〇日同一場所の被疑事実を認め、その後川本署に戻り森山に対しては二か所(別の場所)と供述したことになる。

たしかに、一九日の検察官の弁解録取は、同一場所との送致事実に基づいてなされた取調べであったであろうが、場所については具体的に供述を取っており、仮に一八日の森山の取調べで二か所(別の場所)と供述していたのならば、なぜ同一場所と供述したのか疑問であるし、仮に一九日に検察官の取調べの後に森山に対して二か所(別の場所)と供述したのであれば、なぜ午前と午後で供述が変わったのか、やはり疑問が残るのである。

田中検察官は、証人として、一九日の検察官取調べのとき場所の異同について被告人の供述ははっきりしていなかった旨証言するが、右調書の記載自体からして右証言は信用しにくい。

また、裁判所での勾留質問も送致事実に基づきなされたものではあるが、被告人は玄関は開いていた旨供述しており、そうすると、場所についても送致事実に同一場所とあるのを認識しつつこれを認めたとの可能性も相当大きいのである。

このように、殺害現場と強姦現場が同一であるかどうかについての供述は変転めまぐるしく、このことは被告人が真の記憶に基づいてこれを述べているのかどうかに疑問を感じさせるといわざるをえない。

(2) 蔓のはずし方

被告人は、首を絞めた後蔓ははずしたと述べるが、そのはずし方につき、「うつ伏せにした後右手で引っ張った。」(7/23付け検面《検96》)、「ぐるぐると首からはずした。その後うつ伏せにした。」(7/25付け森山調書《検126》)、「首を絞めた後右手で頭をつかみ、そのまま手前に顔を伏せるように押し、左手は蔓を持ったまま手前に引っ張り、被害者の右肩付近を持ち、被害者を手前にころがすようにした。たぶん左手で蔓を引っ張ったときだろうと思うが、蔓は首からはずれた。」(8/6付け検面)などと供述を変えている。

しかし、右変転の理由は示されていないうえ、8/6付け検面の供述は、あまりに詳細すぎて不自然といわざるをえないのである。

(四) 不自然な供述

8/6付け検面等を見ると、被告人は、殺害状況に関し、蔓を探して手を振ったときの被告人自身の身体の移動の状況、絞めたときの被害者の首の動きの状況、被害者の頭の浮き上がり方、黄色い光と青白い光の差し込み方、被害者の顔の照らされ方、絞殺の際の力の入れ方等々微細な点にわたって極めて詳細な供述をしている。

そして、被害者の首の動きについての被告人の供述は、索状痕と概ね合致すると思われるし、街路灯と水銀灯の色や差し込み方についての供述も、客観的状況と概ね合致すると思われる。

また、被害者の喉頭諸骨に骨折はなく、大人が力いっぱいに首を絞めたものではないと認められるところ、被告人は一分位じっくりと絞めたと供述しており、これも客観的状況に合致している。

しかし、被告人はここまで詳細に記憶していたのであろうか。

ここまで詳細に記憶していたのであれば、なぜ凶器に関する供述は二〇日まで出なかったのであろうか。

また、殺害の外形的な面については、微に入り細をうがって書かれているのに比して、殺害を決意する時の心理的葛藤や手の感触などについての描写が乏しいのはなぜだろうか。

さらに、捜査官が比較的推理しやすかった殺害行為についての供述とそうでないたとえば水に漬けた行為等についての供述との間に詳細度において落差のありすぎるのはなぜなのであろうか。

いずれにしても、8/6付け検面等における殺害状況に関する供述はあまりに詳細にすぎ、かつ客観的状況に合致しすぎており、捜査官の誘導、示唆、暗示と被告人の想像、迎合の跡の歴然とした供述といって過言でないのであって、その信用性には大きな疑問がある。そして、右のことは、ひいて本件における捜査官の被告人に対する取調べの基調がどのようなものであったかという点についても種々の疑念を抱かせるのであって、既に述べた諸般の点と相俟って被告人の自白全体の信用性に疑問を投ずるものといわなければならない。

(五) その他

被告人は、8/6付け検面で、死体発見現場の梅林に入ったとき、奥の方まで行ってから後ずさりをして、殺害現場に戻った旨供述している。

検察官は、右供述につき誘導があったとは考えられず、被告人に記憶があったからこその供述である旨主張する。

しかし、被告人は現場引き当たり検証にも行っており、現場の状況もよく知っていたものであるから、取調べの過程で想像で右のごとき供述をするということもないわけでもなく、被告人に記憶があったことを直ちに指し示すものとはいえない。

5 犯行後

(一)  被告人は、殺害後恐ろしくなり、どこをどう逃げたかはわからないが夢中で逃げ、気がついたら野田方前の小道におり、甲野ドライブインの方に向かって歩いていると大工小屋の前付近で旧国道を北の方から走ってくる車のライトが見えたので、見付かってはいけないと旧農協ガソリンスタンドの方に向かって走り、ガソリンスタンドのブロック塀の陰に隠れた、車はしばらくするとガソリンスタンドの前の道を通過しほっとした旨供述している。

検察官は、被告人が車のライトが見えたという地点から被告人が走って逃げれば遅くとも一〇秒以内にガソリンスタンドに到着するのに対し、車がガソリンスタンドまで行くのには約一七・一秒から約一三・七秒間必要であり、被告人の右供述は合理的であり信用できるし、車の方向と同じ方向に逃げたことも不合理ではない旨主張する。

そこで、検討する。

現に車が来たとして、被告人がガソリンスタンドに向けて走れば、検察官の主張するように該車より早くガソリンスタンドに到着するということはありえないことではない。

また、現に車が来たとして、被告人がガソリンスタンドに向けて走るということは車と同方向に走ることになり、また、水銀灯のある明るい方に走ることにもなって、必ずしも合理的な行動とはいえないが、人は必ずしも合理的に行動するとは限らず、とっさの判断でそのような行動に出るということもありえないことではない。

ところで、被告人の供述によれば、該車は深夜旧国道に入ってきた。

旧国道は国道二六一号線から分岐しているが、書作成の報告書《職35》によれば、天蔵寺橋先で再び国道二六一号線と合流する。

したがって、該車は、ガソリンスタンドより南方で国道に合流するまでの間に居住する者ないし居住する者に関係する者の車である可能性が高く、その付近に住んでいる人の数も限られていると思われるところ、車について聞き込みがなされたにもかかわらず、該車は発見されなかった。

そもそも被告人が殺害後小道に戻ってきたときにちょうど車が来るということがありうるだろうかとの疑問もあるが、被告人の車に関する供述には発見されてよさそうな裏付け証拠が発見されていないのであって、その信用性には疑問が残るといわざるをえず、ガソリンスタンドに入った理由を作るため想像して述べたことであるとの被告人の弁解を容れる余地があるというべきである。

なお、検察官は、取調官が殺害後の逃走経路をはっきり供述するように求めたのに夢中でよく覚えていない旨供述しているが、これは、被告人が真に体験していることを指し示している旨主張する。

たしかに、夢中で逃げたのでどこをどう逃げたか分からない旨の被告人の供述は、被告人が真に体験しているのではないかとの疑いを感じさせるものといえなくもない。

しかし、右供述が被告人の自白の疑問点を解消するようなものではないことはいうまでもないし、明確に供述しなかったからといって、被告人が体験しているとまで断定することは困難というほかない。

(二)  被告人は、その後旧農協ガソリンスタンドで寝てしまい夏子に声を掛けられ気付いた旨供述しており、かつ、客観的にも寝ていた可能性の高いことは既に述べたとおりである。

検察官は、ガソリンスタンドに逃げ込んでほっとしていたこと、被告人が酒を飲んでいたこと、深夜の午前〇時を回っていた時間の出来事であることなどを考慮すれば、殺害後被害者方隣のガソリンスタンドで寝てしまうということもありえないことではない旨主張する。

しかし、仮に被告人がガソリンスタンドに入ったころは被害者方は静かで被害者の捜索などが始まっていない様子であったとしても、家族らは早晩被害者がいないことに気付き大騒ぎになるであろうことは明白であるところ、殺害犯人が殺害後被害者方隣のガソリンスタンドで寝てしまうというようなことは通常はかなり考えにくいことである。

また、被告人は、ガソリンスタンドにいたとき甲野ドライブインは静かであった、まだ被害者のいなくなったことに気付かれていないなと思った旨供述している。

甲野ドライブインの客は大体午前一時ころにはその付近からいなくなったものとみられ、一郎と夏子とが被害者がいないことに気付いて捜索を始めたのが午前一時一五分ころとみられるところ、被告人の供述を前提に考えると、被告人は午前一時すぎころから午前一時一五分ころまでの間に、ガソリンスタンド内に入り、甲野ドライブインの様子を窺ったり、水道を捜したり、たばこを吸ったり、運動靴を脱いだりなどの行動をし、結局ガソリンスタンドの奥で寝込んでしまったことになるが、ありえないこととまではいえないものの時間的に可能なことかどうかかなり疑問が残るのである(なお、一郎、夏子が三郎方に協力を求めに行っている一〇分位の間に被告人がガソリンスタンドに入り込んだと考えても同様の疑問が残る。)。

なお、被告人は、ガソリンスタンド内において、「水道を探したが見付からなかった。ロングピースを吸って吸殻を同スタンドの入り口の溝に捨てた。」旨供述しており、検察官はこれを記憶のあった証左としている。

たしかに、被告人は、二四日の現場検証で水道があることを知っても探したが見付からなかった旨供述し、水を飲むなり手を洗うなどしたのではないかとの追及に対し迎合せずに否定している。

また、ガソリンスタンド内にたばこの吸殻が遺留されていたわけではないから、たばこを吸ったとの供述については、格別の誘導はなかったとみられる。

しかし、これらの供述をもって被告人に犯行の記憶があったことの証跡であるとまでいうことはできない。

(三)  以上のとおりであって、犯行後に関する供述は、その主要部分に不自然・不合理な点やあってよさそうな裏付け証拠が欠如しているという問題が存するのであり、これを信用することはできないというべきである。

四 まとめ

三で、被告人の自白調書について、連れ出し、側溝、強姦、殺害、犯行後と順次検討してきた。

被告人が真犯人であるとすれば、酔余の犯行ということになるのであろうから、自供にある程度不明確部分があったとしても総じて記憶に基づく自供であると論証することができれば、その信用性は肯定されるものと思われる。

しかしながら、二でみたように、被告人の自白には、直ちに秘密の暴露とまでいえるものはないし、連れ出しから犯行後に至るまで、客観的証拠による裏付けに欠ける部分が多く、のみならず反対証拠と思われるものすら存在する。

供述の変遷についても、細部にわたる部分はともかく、殺害現場など記憶違いなどでは説明困難な事柄についても変遷があり、かつ、その理由がほとんど記載されていないことから、なぜ変遷したのかを解明することができない。

また、警察官調書だけでなく検察官調書においても、あまりに詳細すぎる部分や、不自然・不合理な供述も目につき、かつ、捜査官の作為の介在跡が顕著な部分すらある。

このように被告人の自白にはあまりにも多くの疑問があり、被告人の記憶に基づくものとまでいうことは困難なのである。

被害者は水を吸引させられ(生体抵抗機構の高度の減弱をきたしていた。)、そのパジャマ上衣及びズボンの前面には泥はあまり付着しておらず、パジャマズボンの腰部分、パンツの裏にはおびただしい泥が付着していた。

被告人の自白したような行為によって、被害者の最終的な状態(解剖所見及び外観)が惹起されるものであろうか。

また、被告人はなぜノガリヤスでのいたずらなどにつき供述しなかったのであろうか。

本件は深夜山中での犯行であって、裏付けを取りにくい事件であったと思われる。

しかし、それにしても、被告人の自白には多くの疑問があるのであって、酔っていて記憶曖昧な者の供述ということで了解することは至難というほかはないのである。

結局、被告人の自白は全体として信用性に欠けるものであるといわざるをえないのであり、この点は自供が取調べの一日目から開始されていることなどを考慮に入れても同様と認められる。

第五  その他

論告では格別論及されていないが、七月一七日午後一一時から翌一八日午前〇時三〇分まで研究所技師稲垣徹が被告人に対し実施したポリグラフ検査の結果の証拠価値について、ここで、簡単に検討しておくこととする。

稲垣の証言、同人作成の7/20付けポリグラフ検査実施報告書《検284》、同人作成の57/10/22付け鑑定書《検263》によると、本件ポリグラフ検査は、緊張最高点質問法を採用するものであること、検査項目としては第一問から第八問までの八問が用意されたこと、第一問(被害者の着衣)の検査についてはその実施前に被告人がパジャマと正答したので(なお、パジャマ着用の事実は甲野ドライブインの常連客であった被告人には想像でも十分述べうる事柄である。)実施されず、第二問の検査から実施されたこと、第八問(死体の処理)の検査についてはその途中で被告人が疲労を訴えたので中止されたことが認められる。

そこで、第二問から第七問の検査結果について検討すると、第二問(被害者の履物)は裁決質問(裸足)が他の四個の質問と等質とはいいにくいとの問題があり、第六問(いたずら行為)は裁決質問に刺激語(おまんこ)が含まれているとの問題があるので、これらの裁決質問に特異反応の表出が認められたとする稲垣の判定がたとえ正しいとしても、右反応のあったことは各裁決質問の内容をなす事実に関する被告人の認識について何も物語っていないというべきである。また、第三問(被害者の居場所)については、裁決質問(家の中)に対する反応が明確ではなく(なお、稲垣は若干の反応(±)と判定している。)、第七問(殺害方法)については、裁決質問(首を絞めて)だけでなくすべての質問について強い反応ないしやや強い反応の表出が認められたうえ、三回目の質問の際は脈波の測定が行われなかったという問題などもあるので(なお、稲垣は、裁決質問を含む三質問に特異反応ありと判定したが、反応の読み取りが非常に難しく判定に苦慮したと証言している。)、右各検査項目の検査結果から各裁決質問の内容をなす事実に関する被告人の認識について価値ある情報を得ることは困難といわなければならない。第五問(被害者の連行方法)については、稲垣は番号三番の質問(抱えて)に特異反応が認められたなどとするが(なお、被告人は右番号三番について具体的にどのような言い方をしたのかははっきりしないものの否定的な返答をしている。)、7/18付け小笠原調書《検148》をみると、転んで泣き出した被害者を抱き起こした旨の供述記載があるところからして、被告人は、ポリグラフ検査前に、被害者を歩かせて連行中抱えるという行動と類似性が高い抱き起こすという行動を限定場面でとった旨小笠原に話していたことが窺われるのであり、そうすると、被告人は番号三番の質問を受けた際右の抱き起こしたという行動を連想したけれども質問自体に対しては否定的に返答したということも考えられないわけでもないから、右判定がたとえ肯認できるとしても、そのことから被告人が番号三番の質問内容をなす事実につき認識を有していたとかその可能性が高いとかとまで推論することはできないというべきである。第四問(被害者連行場所)については、裁決質問(山の中に)に特異反応の表出があるとの稲垣の判定自体は一応肯認してよいであろうと考えられるが(なお、被告人はこの質問に対しても具体的にどのような言い方をしたのか分からないが否定的な返答をしている。)、この第四問の質問をみると最終的な連行場所についての認識を問おうとしている趣旨が明瞭に表れているとは必ずしもいえないうえ、死体の発見された本件梅林を考慮外において生活改善センター裏の梅林を単独でみれば、同梅林は上りかけた山の裾野に位置し、山の中といっていえないことはないこと、ポリグラフ検査前には側溝への突き落としまでしか取調べは進んでおらず殺害現場についての取調べはなされていなかったこと、ポリグラフ検査後の取調べでは被告人は生活改善センター裏の梅林を殺害現場と指示していることなどに照らすと、右反応があったことをもって直ちに被告人が本件梅林に連れて行ったことにつき認識を有していたとかその可能性が高いとかとすることはできないというべきである。

このようにみると、結局、本件ポリグラフ検査の結果は、既に述べたような数多くの疑問を含む被告人の自白について、その信用性をこれらの疑問にもかかわらず高度に保証するような証拠価値を有するものではないといわなければならない。

第六  結論

寝室南窓前の二個の被告人の足跡は、被告人が、事件当夜午後一一時三〇分ころ以降に印象したものである。被告人は店を出る前からの記憶がないと弁解しており、被告人自身に右足跡の説明を求めることはできないが、事件当夜被害者連れ出し可能時間帯に被告人自身が寝室南窓の至近まで行っていることは、被告人が犯人なのではないかとの疑いをかなり感じさせる。

また、被告人は、川本署に任意同行されたその日のうちに自供を開始しており、第一回公判供述も被告人に不利益な供述ではある。

しかしながら、早期の自白に関する弁解は了解しえないものとまではいえないし、第一回公判供述も必ずしも重視することはできない。

二個の足跡も被告人と犯行とを結び付けるとまでいうことはできない。

目を転じて被告人の自白をみるに、解明されていない問題があまりにも多い。供述調書には供述変遷の理由が書かれていないことが多く、また、被告人は、犯人が被害者陰部に作為的に挿入したと思われるノガリヤスについては供述しておらず、被告人がいかなる供述をしていたのかが不明のままである。

加えて、被告人の自白は客観的証拠との齟齬もある。また、被告人の自白はそれぞれの行為については一応供述されているが、全体的にリアリティに乏しい。

本件では、被告人が任意同行に応じた当日に自供を開始したことも影響しているのではないかと思われるが、客観的捜査が何かにつけ不徹底に終わってしまっており、そのことが証拠関係に曖昧さ不明確さをもたらしている。そして、被告人の自白は、右に述べたように種々の問題があって、犯人の記憶に基づく供述として了解することは困難である。

本件の審理は第一回公判以来約八年半を経過しており、既に、事件の資料を新たに得ることは極めて困難になっている。

当裁判所は、取調べ済みの全証拠を子細かつ慎重に検討したが、これまで詳細に説示したとおり、被告人に対する嫌疑を深める証拠もあるものの有罪を決定付けるに足るようなものは見出せず、また、自白内容には解明できない疑問点が少なくなく、その信用性を肯定することができないので、結局、被告人が本件強姦致傷及び殺人事件の犯人であると認めることにはいまだ合理的な疑いが残るといわざるをえないとの結論に達した。

以上の次第で、本件公訴事実についてはいずれも犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡をする。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 須田 賢 裁判官 森野俊彦 裁判官 三井陽子)

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